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2004-09:index

fucking one week

宵闇の中、心地よい涼風が頬を撫ぜる。久方ぶりに真面目に動かした体は、少しの痛みと清々しい疲労が支配していた。

喧騒を抜け、寂れた小道に入る。ヘッドホンから流れるアンビエントも、今は退屈な空気をまるで感じさせず、さながら眠りに落ちる寸前のあのまどろみを喚起している。

ふと思う。肉体的な痛みや苦痛、疲労と言うものは、恐らく精神的に不可欠なものではないだろうか。何故なら、文字通り痛感させられるからだ。疲労で上手く動かない四肢や、普段使わないあまりに悲鳴を上げる筋肉、関節が教えてくれる。どうやら僕は、生きているらしい、と。

僕はずっと不思議だった。何故大きな行事や卒業式の度に、彼らは涙を流すのだろうと。一体何が彼らに涙を流させるのだろうと。泣きじゃくりながら別れを惜しむ元同窓生を眺めては、そう思っていた。所詮通過儀礼のようなものである。そんな些細なことで、と思ったことさえあった。例えば、僕も感動するような映画や音楽などに触れたとき、涙を流すことはある。しかし、僕の流すそれと、彼らの流したそれは、恐らく、違う。

そして、最近になってようやく、おぼろげに彼らの涙の意味が分かってきた。恐らく彼らは、本気であり、真面目だったのだ。理由や意思がどうであったかは分からないが、少なくとも僕よりはそうであったに違いない。彼らは彼らなりに、本気でことにあたり、真面目にこなしていったのだ。その苦痛や痛みからの解放や、過去への充足感が、涙という形で流れた。では僕はどうであったか。本気になったり、真面目になったことが、一度でもあっただろうか。ああ、今こうして書いている最中も、僕は「馬鹿らしい」と思っている。どうやら、本質的に僕は歪んでいるみたいだ。

しかし、まだ僕は本気の人々の足を引っ張るほどには、落ちぶれてはいない。出来る事なら関わりたくはないというのが本音だが、システム的に義務化された参加には、卑屈な僕は従うしかない。僕は決して本気も出さないし、真面目にもやらない。だが、彼らの本気や真面目に僕の行動が含まれる以上、僕を受け入れてくれた彼らの意思にそわねばならないとも思う。

適度に手を抜き、適度に従う。少しばかりの痛みと疲労を感じはするが、それも今は心地よい。

健康的、ああ、なんとも、嫌な響きだ。

Increase Insanity

体育祭などと言う面白くも何ともないイベントの準備の為に、体の節々が痛む。頭の具合も良くない。

誰かが言う。

「みんなもやってるんだから。みんなも辛いんだから」

僕はどうも、こういう妙な協調性を持った人間が嫌いらしい。みんなもやっているから、みんなも辛いから、何だと言うのだろう。自分が頑張っていようが、辛かろうが、それはあんたの勝手ではないのか。自分も辛いのだから、お前も辛くないと不公平だ、とでも言いたいのだろうか。そんな自分の精神的安定を図るための言葉で、他人が動くはずがない。

伝統だとか、団結力だとか、思い出なんて、糞食らえ、だ。強制的に他人を動かさないと成り立たない事を素晴らしいと言える神経を疑う。押し付けられた意思なんぞで動きたくもないし、そんなもので自他問わずに評価されたくもない。

ただでさえ不安定で、曖昧で、脆い精神を僕は持っている。だから、せめて自分の意思で動いていたい。そうでなければ、生きている意味を、真の意味で失ってしまう。

自分勝手、上等じゃないか。訳も分からず流されて、言われるように動くだけの肉人形になるくらいなら、他人に見限られたほうがよっぽどましだ。疎まれようと、蔑まれようと、哂われようと、知ったことか。お前らは狂った世界で狂ったまま死ね。

僕は一人の世界で狂ったまま死んでやる。

neck neck neck

諸事情で首にコルセットをつけるはめになった。鎮痛剤のせいで頭もはっきりしない。はっきりしない頭ではっきりしないことを書く。

人を殺すな!言葉を殺すな!を読んで、同じことを考える人が居るものだと改めて思った。

細部の思考(主に歴史上の関係など)こそは違うが、結論である「Webでやれば良かった」と言う点に、僕は大いに同意する。以前読んだとあるサイトの小説で、近未来の人間は脳をWebに繋げた人と、それを拒否した人との間に格差が生じている、と言うような設定があった。先の記事の意味するところとは厳密には違うが、「知っているか知っていないか(使うか使わないか)」と言う差で言うと、共通点を見出すことが出来る。

もっと有効な手段があるはずなのに、それを知らなかったり、使いこなせないが為にろくでもない失敗をしてしまうと言うことは多々あるものだ。先の件で言えば、武力に武力と言う手段で対抗するテロリズムでは、現代国家に勝てるはずもない。もっと有効な手段はあった筈である。現に、大っぴらに国の顔を批判し、その上たんまり金まで稼いだ映画監督だって居る。彼らの行った事で得た結果と同程度かそれ以上の結果を出した上に、金まで手に入れるやり方があったのだ。こう言っては悪いが、結果的にあの事件の被害者も加害者も、はっきり言って、無駄死にだったとしか言いようがない。

もうオタクと呼ばれる人種の社交場であったパソコン通信の時代はとっくに過ぎた。僕はWebの威力を、Webの強さを知っている。2ちゃんねるを見ろ。連邦を見ろ。探偵ファイルを見ろ。今抗がん剤の新薬を作るのに協力し、世界一の功績を上げているのは誰だ。9/11の被害者の人への募金協力に始まり、今では飢餓に苦しむ人や難民の為の募金に協力、支援しているのは誰だ。皆で力を合わせて、アフリカに学校を建てたのは誰だ。今も色々な事に目を向け、自分の言葉で思った事を書いている人は誰だ。

確かに、「Webでやれば良かったのに」と言う結論に達せるのは、Webにそれなりに触れたことがあり、Webの威力を知っている人だけかもしれない。しかし、「Webでやればいいんだよ」と言うには、Webの威力を知るだけで良い。ではどうやって知るのか。簡単だ。行動すればいい。この世界は現実と隔離された特別な世界なんかじゃない。大きな力がこっちの世界に働けば、インターネットのイの字も知らない人間でも思い知る事になる。

その為に何が出来るか。とりあえずは書くことだ。書くことが関心を呼び起こし、その関心がやがて意思に変わる。後はそれぞれの頭で考えればいい。ペンは剣よりも……いや、キーボードはペンよりも、強い。

right write light

試しに短編小説を投稿してみようと言う試み。まず無いと思いますが、大賞が取れたら僕の周辺の人には焼肉が待っておりますので、覚悟しておいてください。と言うか締め切りが9月21日消印までなのですが。1週間足らずで4000文字程度も書けるのだろうか。善処しよう。

さて、最近知ったきをふし氏のサイトで大変アグレッシブと言うか、躍動的と言うか、ともかく勢いと冷静さのある文章を書かれていたり、取り上げるソース(主に「情報」カテゴリ)が琴線に触れまくりだったりと、非常に興味深い。お勧めかつブックマーク入り……って、そろそろ個人用のブックマークを整理しないと、追加したいサイトやら移転したサイトやら閉鎖したサイトが溢れてしまっているなあ。400件超のサイトを整理するのは大変だなあ、と思いつつ、某氏は1k越えのサイトを日々巡回している事を思うと、本当に頭が下がる。

ここ数日ワイヤードの世界から諸事情(今更ながらにアーマードコアNEXUSにハマる)により離れていて、久しぶりに触れたこの世界、不思議と新鮮と言うか、本当に情報の流れは速いものだな、と、幾度感じたかも知れない感懐をしみじみと。巡回先のニュースサイトのログ追うだけで一日が潰れるのも、一体何度目だろうか。もうそろそろ広大なWebから情報をピックアップする職業が出来ても良いのではないか……って、AllAboutJapanとかがそうなのかな。広告掲載による収入は雀の涙なようだし、そのうち個人でも、どうにかして安定した見返りを得れるようなシステムが出来ると良いなあと思う。いや、僕には全く関係ないのだけれどもね。確かに文章で食べれるようになりたいとは思うけれど、それとこれとは、別。未だにテキスト村の血が流れているのかな。ともかく、執筆業の傍ら、このサイトを続ける事が一つの目標の終着点。もう一つはお察しの通り孤独に発狂死。

よし、気合入れて書いてみよう。いつか相馬氏の仰った通り、送ってなんぼ、僕も参戦する事に漸く決めました。

果てさて、突き通しきれるのかな。最強の矛もいつかは折れる。凡庸ならば、尚の事。……ああ、関係ねえな。もともとそんなもん、持っていやしないし、これからも持たない。何も持たず、何も得ず、ただ歩き回り、いつか動けなくなった時の為に弾が一発込められたデリンジャーさえあればいい。威力は、十分だ。

nijiiro glasses

サイトを構築するにあたって、迷うことがある。

その一つは、一体僕は「何を書きたいのか」と言うこと。

#の振られた話を書くべきなのか、それともごく私的な日常を書くべきなのか、それとも何か目に入ったものについて書くべきなのか。「べき」だなんて言葉を使うようなことではないのだが、僕はそれほど引き出しの多い人間ではないようなので、最近は大抵一つ何かについて書いてしまうと、暫く書く気力がなくなってしまう。その時々によって一番書きたいことを書けば良いと言えばそれまでなのだが、それはそれで自分の内部にしこりのようなものが残る。

それら全てに共通して考える事は、それに果たして「意味」があるのかどうか、と言うことだ。別にそれらに限ったことではないのだが、何かにつけて僕は意味を見出したがる傾向にある。意味を見出したり、つける、と言ったことは、つまりは分別したり、区別したりすることだ。僕は果たして区別したいのだろうか。どっちでもいい、と思うこともある。しかし、やたらと区別したがる節も、ある。

人の観点は、よく視覚に例えられる。その良い例が「眼鏡」だ。眼鏡を外す。僕はかなりの近眼に軽い乱視が混ざっているので、眼鏡を外すと三十センチ先ですら満足に識別出来ないほどにぼやける。眼鏡をつけていればはっきりと区別出来たものが、眼鏡を外した瞬間に境目を失い、滲み、すべて同じになる。

つまりは、そういうことなのではないか。僕が区別したがり、意味を見出したがるものは、眼鏡を通して見ているからだ。なまじ境目がはっきりと見えるだけに、「なぜ同じでないのか」と言いたくなってしまう。しかしひとたび眼鏡を外せば、「別にどうだって良いじゃないか、同じなのだから」と感じるようになる。

北野武が、「自分は本当に他人と色が同じように見えているのか不安になる」と言っていたのを記憶している。色の違い、形の違い、見え方の違い。それらを区別するのは自分の視覚だし、自分の意思だ。なぜ彼は不安になるのだろうか。それはきっと同じものを見ていたいからだ。同じものを見せたいからだ。しかし、人によって眼鏡は違う。色も入っているかもしれない。もしかすると視力がないかも知れない。結局は堂々巡りになる。

再び眼鏡をかける。周りが意味を再び発見し、自らの形を思い出すように収束する。その淵を少しでも出れば、また意味を失い、歪み、淀む。そういうものだと割り切り、そういうものだと思っていれば良いのだろうか。

一度、映画を撮ってみたいと思う。無意味で、無価値で、冗長と言う言葉でも足りないくらいに長いやつを。そのくせ、映像ばかりは無駄に美しくしたい。それに意味があるのか、ないのかなんてことは考えない。ただ、気が赴くように、撮ってみたい。

多分は、そういうことでいいのだろう。後は勝手に見た人が、その人の眼鏡で区別をつける。許される限り僕はきっと自由で、好きにやればいいのだ。

しかし、それでも。

迷い、悩みは、尽きない。

keep instability

僕は不安定でありたいと思うようになった。

と言うのも、何度かここで書いていたように、僕は何か「絶対的」なもの、決して変わらない尺度になるようなものを渇望していた。それはひとえに、心の平安、精神の安定を望むがゆえだった。

わざわざ書かずとも分かるのだが、そんなものは存在しない。絶対は絶対にない、と言う矛盾でありパラドックス。しかしつい先ほど、はたと気づいた。絶対はない、のではなく、絶対はあってはならないのだと。

心の平安、安穏な日々、平穏な生活は、誰しもが一度は望むものだと思う。そして次の瞬間には「そんなものはありえない」と気づき、落胆する。しかし、だ。もし仮にそんな安定があったとしたら、僕は一体どうなるだろうか。人は完全な満足を得た瞬間、恐らく歩みを止めてしまうのではないか。僕がもし安定を手に入れたなら、例えそこに進むことの出来る道があっても、目に入らなくなってしまうのではないか。

そうして、僕は不安定でありたいと思うようになった。人の最も強い行動原理は、恐らく「逃避」だ。不安定から安定へと、相対から絶対へと、人は常に逃避している。「心が平穏ならば、何も生み出す気にならない」と言うもの書きの言葉は正にそれで、不安定であればあるほど、鬱屈すればするほど、逃避が形を変え、創作活動として強く表れる。

ならば、僕は不安定でありたい。安穏とした幸せな日々など、僕はいらない。意思をなくし、意義を忘れ、何もこの手から生み出せなくなるのならば、死んだほうがましだ。

と言うことを考えている九月二十一日午前二時。締め切りが今日までの作品の詰めは、まだ終わっていない。時よ過ぎろ。僕を追い詰めろ。二次元的にしかものを見れない種類の人間に、ベクトルがどちらに向いていようと進んでさえいれば、それが「前進」なのだと思い知らせてやる。焦りや不安の逃避でもって、この短編を最高の作品に仕上げてやるのだ。あんたらが言う「逃げ」で、僕はきっと、成果を出してやる。

ああ、それにしても、矛盾とパラドックスの塊みたいな文章だ。

cause not found

自分の書いた文章を読んで「若いな」と言う感想はどうだろう。

そんなことはとりあえず置いておいて、いつもどおり勢いに任せてキーボードを打つ。今日は……と言っても正確には昨日だが、まだ寝ていないので僕の中では今日、自分の書いた小説を先生に見せている知り合いを見つけた。普段はあまりそういう雰囲気ではなかったので興味本位で話しかけてみると、どうやら彼は処女作で四百字詰め原稿用紙に三十枚も書いたらしい。それも手書きで。

僕はあまり、と言うか、全くの方が正しいか、ともかく、手書きではこういう文章は書かない。キーボードに慣れすぎてしまった所為か、漢字を、読めるし、理解も出来るのに、書くことが出来ない。いちいち辞書を引く手間や、小汚い、ミミズがのたうちまわったような字しか書けないことを考えると、自然と筆が指の周りを回転しだす。これが心理学的に言う逃避行動か、とか考えているうちに、気づけば寝ている。

もう始めから話の流れなど考えていないのだが、とりあえずずれ過ぎたので修正しよう。一度でも創作をしたことのある人ならば、原稿用紙三十枚分がどれほどの労力かは容易に想像できるだろう。書き慣れた人ですら、「さあやろう」と意気込まなければ書けないことと思う。しかし、話を聞く限りでは、彼はそれを一晩でやってしまったらしい。素晴らしいまでの情熱が感ぜられる。

結局は、創作なんて「如何に情熱の炎を絶やさないか」と言うことなのではないだろうか。書き続ける情熱と、描き出す技量。書いたり読んだりしていれば自然と技は身につくだろうから、それを形に出来るか否か、つまり、書き続け、書き終えることが出来るかどうかが、創作をやる人間に不可欠な要素なのではないか。

僕で言えば、短期間で燃え上がった後は暫く小火が続く感じで、燃料は鬱屈である。ポジティブなことなど文章にして何が面白いか。挫折と絶望にこそ、人生の真理がある――とか書いてるから頭おかしいと思われるんですね。自戒しつつ反省はしませんが。

挫折と言えば、BUMP OF CHICKEN。新アルバムはスルメ感が無くなってる点以外は、音作りもこなれて来た感じで良いんでないでしょうか。ああ、しかし、しみじみ思う。「良い」ことを「良い」と書くのはかくも難しいことか。こき下ろしたり悪い批評を下すのはあんなにも簡単であるのに、こと「好き」と言う感情を言葉にしようとすると、はたと手が止まってしまう。これは僕の人間性故か、それとも別の所に理由があるのかは分からないが、ともかくBUMP OF CHICKENをシングルカットされてる曲やらKやらで「良い」とか思ってると、アルバム収録曲のもろに皮肉が詰め込まれた曲を聴いて愕然とするので、注意されたし。ユグドラシルで言えば乗車券なんかが、珍しく「あからさま」で分かり易いかな。それと、シングルカットされた曲も、実は殆どが皮肉入り。オンリー・ロンリー・グローリーなんて、物凄い皮肉が裏に隠れているのだけど、一見明るい曲調と単語で巧妙に隠してあるところがまた。そんな訳で、BUMP OF CHICKENの歌の本質は「駄目男」だとか言ってみる。その辺諸々を含めて「臆病者の一撃」ってバンド名をつけたとしたら、恐らく僕は一生ファンだろうなあ。あ、ASIAN KUNG-FU GENERATIONも新譜が今日発売じゃないか。彼らは素直に歪んでいるので大好きです。って、やっぱり「大好き」としか書けないなあ。好きってのは、言葉に出来ない程度の感情なのか、言葉にならない程の感情なのか、ううむ。こういう感覚を上手い事文章に落としてこれると、文豪だとかになれるのだろうね、きっと。

書きたい事も書けないこんな世の中じゃ……ポイz……じゃないや。書きたいことがあるのにマークアップとデザイン上の都合でちょっとばかし問題があるので、近いうちにまた変えようかと。ロゴ、気に入ってるんだけれども。また別のを作ればいいだけか。

連休があるようなので、その時にでも気が向けば。色々と、ね。

be forget

サイトデザインを弄るべや、とベジェ曲線をこねくり回していたのですが、どうも天啓がおりてこないばかりか、ふとした図形から色々なことが思い出されてよくない。

長い間歩き続け、精も根も尽き果てて、ふと立ち止まって過去を振り返ると、実はちっとも進んでいなかった、と言うのは、何も立ち止まってからでなくとも分かるのだなあ、と思う。いつだって振り返れば、記憶の片隅、思い出の奥に、彼らは佇んで、あの頃のままで存在し続けているのだ。

ともすれば薄れ、やがて消えてしまうかもしれない。事実、思い出せないことなんて、あり過ぎるほどにある。だけれど、薄れても、消えてしまっても、きっとどこかに残滓は残っていて、その連鎖の絶たれたふとした思い出を取り上げては、「どうしてこんなことを思うんだろう」と、「そのこと」自体は消えてしまっても、「そのこと」が残してくれたものは自分の中に死ぬまで残るのだと、そう、気づかせてくれる。

いや、しかし、僕もまだ「成りきれて」いないな。未だ感傷を捨て切れていない。こんなんじゃ駄目だ。こんなんじゃ、駄目なんだ。