人間の欲求ってのは、どうやったって付いて回る。「こんな事を書いたらウケるだろう」だなんて、一体この頭の何処から湧いて出た言葉なのか、甚だ自分が嫌になる。
ともかく、本能に近いほうの理性的欲求は無視して、書きたい事を書く。
「ナンバーワンよりオンリーワンだよ」とか満面の笑みで言う輩がやたらと増えた。ナンバーワンを「ある物事について頂点に立つこと」、オンリーワンを「その人独自の個性」てな意味で取ると、なんとなく「ああ、そうだね」とか言ってしまいそうな気になる。しかし、だ。その人独自の個性を評価し、それを善し、とするならば。僕らは、誰に対しても何の言葉も持てなくなる。
いちいち書かずとも分かるだろうが、他者に言葉を投げかける、評価すると言うことは、自分も投げかけられる、評価される可能性を孕む。その点で言えば、貶すことは勿論、褒めることすら許されない。決してお互いの事に触れない、当たり障りの無いコミュニケーションしか残らない世界が、彼らの理想なのだろうか。
僕が思うに、この言葉は――あまりこういう観念は好きではないのだが――「敗者」の言葉なのだ。どうせ頂点になんか立てない、それなら自分の好きなようにやっていいじゃないか、と言う、諦観的な姿勢の生み出す言葉に他ならない。自分らしさを求めて生きるのは良いだろう。個性、大いに構わない。しかし、対比に「頂点」を持ってきている時点で、それはただの自己正当化にしかならない陳腐な言葉に堕ちる。それだけじゃない。この言葉を「こっちのほうが正しく、素晴らしいですよ」と吹聴し、それを何も考えずに受け入れるってな風潮にも、反吐が出る。
もう一度、よく考えてみればいい。オンリーワンだとか、個性なんてのが一番になれば、それは個性に個性が埋もれた没個性社会に変化するだけで、現実的には何の変化ももたらさない。今と同じように「個性」が強いか弱いかで優劣が勝手に決められてしまうだけだ。結局お前らは「比較」しなきゃ生きる意味も持てないって事を、そろそろ認めたらどうなんだい。いつになれば押し付けられた物差しの歪み具合に気づくのかな。
個性が一番、確かにそうだ。あんたらと一緒にされては、たまらないからね。
僕は障害者が嫌いだ。
とかわざとらしくショッキングな出だしにしてみたが、別に差別主義だとかではなくて、僕は障害者の人と、その人を取り囲む環境が、嫌いなのだ。
障害者、と言っても、程度にもよるだろうが、重度になればなるほど一人では生きて行けない。誰かの助けを借りなければ、その日の生活もままならない、と言う人もいる。そして、そこには必ず、血縁者や理解者の愛がある。僕は、それが嫌いだ。
マーキュリー・ライジングと言う映画がある。98年くらいの作品で、ジャンルこそはB級アクション、主演がブルース・ウィリスだと言う点で、大体の流れは察して欲しいのだが、僕はこの映画には、ただのアクション映画と言うレッテルは貼りたくない。
簡単なあらすじを説明すると、パズルの天才である自閉症の少年が、国家の機密事項である暗号をひょんなことから解いてしまい、その辺の関係者の人に命を狙われているところをFBIの捜査官であるウィリスの野郎に救われてめでたしめでたし、ってなコテコテのB級具合なのだけれど、物語の冒頭、少年と両親との繋がりを描写する部分が、本当に素晴らしい。
少年が学校から帰ってくる。母が出迎え、息子に熱いココアを出す。「熱いから気を付けて」と母に言われ、それを復唱しながらココアに口をつける我が子を愛おしそうに眺める母。少年は自室に戻り、やがて父が帰って来る。父は息子を抱き、ロッキングチェアーで揺れながら、息子は父の胸で眠りにつく。父は眠った息子の頭を、やさしく、ゆっくりと撫ぜる。
物語は進行し、敵に無残にも殺されてしまう両親。少年は何とか逃げ延び、ウィリスの演じるアートに保護されるも、頑なに「家に帰る」と言って聞かない。やがてアートは折れて、少年を家にまで連れてゆく。殺害された跡がそのままに残されている家で、少年はアートにココアを淹れてくれるように頼み、アートが従うと、少年は「熱いから気を付けて……」と復唱しつつココアに口をつける。
と言った具合で、その他にもアートとの触れ合いや、エンディングの泣き所などはあるにはあるのだが、僕はこの一連の流れを、もしこれを読んでいる貴方が見る機会があったのなら、是非推したい。僕の文章力では伝わらない細かい仕草、描写が、本当に「親は子を愛しているし、子もそれを理解(感じて)いる」と思わせるように出来ている。
僕はこのシーンを見るたびに、込み上げる涙を制しながら、「何でだろう」と思う。一体何に対しての疑問なのか、亡羊としていて掴み所がないのだけれど、あえて言うなら、どうしてそんなに愛することが出来るのか、また、どうしてそんなに愛せる人が居る一方で、愛されているのか、それとも愛されていることに気づかないのか、いろんな気持ちを無碍にする人……つまり僕が存在しているのか、と言う「何でだろう」だと思う。
僕は愛されているのだろうか。気づいていないだけで、誰かに愛されているのだろうか。そんな愛される資格だとか、その愛に相当する何かを僕は持ち得ているのだろうか。こういった彼らを見るたびに、そう思われて、心の闇は躍動し、僕を侵食して行く。
だから、僕は障害者が嫌いだ。僕と言う、精神の障害者が、嫌いだ。
僕は言わない。
サイトではあれこれと書いてはいるが、日常の僕はそれほど雄弁と言う訳ではない。会話と言う形では大抵論旨がずれたり、気付けば話の方向が明後日の方向に向いてしまう事が多々あるし、経験的に、何かを言っても本人が「理解を内包」しつつそれに気付いて居ない事を指摘する以外、分からせる方法など無い、と知っている。話の内容などで「理解を内包」する状態に持って行くことは出来ないことは無いが、時間も手間もかかってしまう。早い話が、面倒くさい。食いついてきても、「自分で気付け」と突き放す。
とは言っても、自分の中でしか通用しない理論だとか思考だと言うのは、重々承知している。相手には相手の理論や思考があるのは当然の事。しかし、それはそういうことだと「知る」事や、そういう考え方もあると「認める」ことは、自分の理論や思考は関係無しに出来る筈だ。それなしにはコミュニケーションそのものが成り立たない。
だからこそ、僕は口では多くを語らない。問い詰められれば、酷く歪曲した返答はするだろうが、決して核心には触れない。ある意味、とても傲慢な物言いで嫌いではあるのだが、「試している」とも言える。それくらいは自分で気付いて貰いたいからだ。考え方や思惑などというのは、表面的な物でしかない。人の奥底には、その「結果」に至る途方もない経験や知識、感情が渦巻いている。そこまで察しろなどと言う気はないが、せめて「結果」が導き出した言葉や態度で「結果」くらいは察せて欲しい。そのくらいの理解しようとする意思が無くては、到底対話など出来る筈もない。
ただ、「言葉にしてくれないと分からない」と言うのもまた真だ。時々ではあるが、無くしたパズルのピースのように、その人の持つ経験や知識からではたどり着けない結果を僕が持っている場合がある。そういう場合はそのピースだけを渡す。僕は性根が腐っているか歪んでいるかしているので、決して素直にはならない。遠まわしに、意味深に、嫌らしく、狡猾に、言葉を紡ぐ。それで相手が気分を害そうが知ったことではない。怒りや不満で「意思」を無くすのならば、その人にとっての「それ」はその程度だと言うことだ。
そんな訳で、僕は言わない。恐らくこれからも、決して。
どうしてこうなのだろう。
話せば話すほど、触れれば触れるほど、その人と僕との距離が遠くなる。僕の方が、遠くへ行ってしまう。
すべては自分が選んだ道なのだ、と思う。結局は僕が選んだのだ。どう選んだかとか、どうして選んだかなんて、さしたる問題じゃない。そんなものはただの結果論でしかない。今、ここから何を、どう選ぶのかが問題であることは分かってる。しかし、選んだところで、やはり同じ事であるのは相違ない。どう転んでも、僕が僕で在り続ける限り、あらゆる全てから遠ざかり行くだけだ。
いつも思っている。「こいつら全員消えてくれやしないか」と。誰もいない世界で、僕だけが僕であると知る世界で、一人朽ちてしまいたい。認められたいのではない。知られたいのではない。理解されたくもないし、ましてや同情されたいわけでもない。確かに幾ばくかの人間的感情のもたらす執着はある。しかしそれもどうでもいい。鬱陶しいだけだ。僕も、君も。
僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ。
容易なことではない。可能なことを自発的に抑制することは、想像する以上に、辛い。短絡的に不可能にしてしまっては意味がない。「出来る」のに「やらない」ことが重要だ。頑なな意思が要る。果たして僕にはそれがあるか。
簡単なことだ。そんなものがあれば、とっくにやってる。中途半端で、凡庸で、本当に泣けてくる。それでも足掻くしかない。いや、足掻くことしか出来ないのか。
足掻くことすら出来なくなった時、僕はどうすればいいのだろう。
こんにちわ、痛い人です。
最近は携帯端末の普及で、何処かに晒されても携帯ユーザーのリファラが2、3件あって、分かりやすい時代になりました。
とりあえず自称気違いから公認気違いになったと言うことで良さそうです。
もう二度と戻らないと思っていた世界に、気まぐれでまた戻ってみる。もうその世界には僕の存在意義なんて無いのに、未だに固執してしまうあたりに、僕の人間性の底が窺える。
果たしてその世界は、以前とは全く変わっていた。創世記に近い頃から存在し続け、「老兵」だなんて自負のあった世界では、もうなくなっているようだ。しかし、それもまた面白い。僕の存在意義の無くなった、よく知った新世界で、一人佇み続けてみるのも一興だ。
そう言えば、最近は大陸の人間が、わざわざ日本のゲームにログインして小遣い稼ぎをしているらしい。どちらを見ても異邦人の排斥を謳う文句ばかりで、大変に面白い。果たして彼らの中で、会社側にメールまで送って抗議する人間が、一体いか程居るのだろうか。所詮は彼らもゲーム自体に飽きたのだろう。正当な「正義」を掲げて叩ける相手がやって来たから、ああして暇つぶしに攻撃しているだけなのだ。解決自体を望んでいる人間など一握りだろう。口実と対象さえ居れば良いのだ。それがPKだろうと、「チャイ」だろうと、彼らにとっては大した差ではないのだろう。
以前、何処かのゲームでも大量に異邦人がやってきて暴れまわった事があったが、その時にも思ったことを再び思う。どっちもどっちだよ、お前ら。
秋雨にうたれながら、金木犀を眺める。数日前には胸いっぱいになるほどに香っていた花は落ち、辺りのアスファルトは一面、橙に染まっている。
ぽつ、ぽつ、と、傘をうつ雨滴を聴きながら、色々なことを思う。その中でただひとつ確かなことは、電話一本で舞い上がる安い心と、その繋がりしか盲目的に信ずるものがないと言う弱さ。
僕を支配するのは、切なさだけで。悲しみだけで。到底夢のような場所までは、行けそうも、ない。
傘を閉じる。足元でぴたり、ぴたりと水滴の落ちる音。ドアの鍵を開け、狭い通路に薄明かりが差し込む。僕は数歩踏み込み、踏み込んだ惰性の力でドアを閉じた。
背後でドアの閉まる大きな音。眼前に広がるは、仄暗い狭い道。これは暗示か、現実か。そんなことも、もうどうだって、構わない。
蛍光灯の切れかけた部屋。明滅する視界。ひとつだけ確かな光芒を放つ画面。その前に座る僕。人がこんな光景を目の当たりにしたらどう思うだろうか。恐らくは、諸氏の想像の末の、そのひそめた眉が答えだろう。
明滅した状態では目が辛いし、かと言って暗闇の中でガチャガチャとキーボードを叩く音だけが響いていると言うのもホラー過ぎて宜しくない。仕方ないので白熱電球のおんぼろ照明を引っ張り出してきて、部屋に入ったすぐ横の壁際に置いてみた。雑然とした部屋が、より陰鬱な雰囲気に包まれる。巣穴、なんてぴったりな単語だろう。
*
最近は上着を羽織らないと、外に出れなくなってきた。寒いのは良い。かじかむ指先、麻痺した耳、頭の芯に響く鋭い冷たさに、思考が冴え渡るのを感じる。それが決してまともな方向に使われることはないのだが。
*
PLUTO読了。まだ一巻しか出てないので、こう言うには早すぎる気はするが、浦沢作品中最高傑作になるような気がする。
何よりも特筆すべきは、ロボットの感情をここまで描ききれる作家は、そうそう居ないであろうと言うことだ。PLUTOには人間に限りなく近いロボットから、手塚作品らしいつるりとしたフォルムの「いかにも」なロボットまで登場するが、そのどちらとも、人工知能による「感情」を持っている。人間に近い方は、表情や仕草と言った「外見的に」すぐ判別出来る感情表現を持っているが、古めかしいタイプになると、表情やそれに類したものを全く持っていない(ように描かれている)。しかし、読者はその無表情なロボットの気持ちを、痛いほどに突きつけられる。これは台詞回しや、前後関係を鑑みないと分からない(つまりネタバレせねばならない)ので「実際に手にとって読んでほしい」としか言えないのだが、多用されるロボットのアップに、きっと読者は同じ事を思う筈だ。僕は「彼女」の透明なレンズの輝きが、永遠に流れる事のない涙に思えて、仕方がない。
また、ごく人間らしく描かれているロボットであるが、作中には「君はロボットだから」と言う人間からの台詞が何度か出てくる。これは恐らくロボット差別でも何でもなくて、ただの事実を「そうである」と言っているだけなのだろう。だからゲジヒトは俯いて憂いた表情をするしかないし、ノース2号も初めは黙するしかなかった。
ロボット故の葛藤、悲しみ、違いを描きつつ、次々に殺され(破壊され)て行く「最高峰のロボット達」。そして犯人らしき「PLUTO」の謎。原作をまだ読んだことがないので結末も成り行きも分からないが、とりあえず今作が一応の結末を見るまでは読まないでいておこう。
浦沢氏の最近の作品と同じように、少年漫画のようなド派手な立ち回りや、王道らしい演出は一切ない。ただ淡々と物語は進み、時折挟まれる虚を突いた演出に、背筋がぞわぞわと逆立つ。何度読み返しても面白みが全く色褪せないと言うのは、名作と言うよりも異常としか言い様がない。
普段漫画を読まない人も、日々漫画を読む事に費やしている人も、この一冊を手元に置いて、秋の夜長を過ごしてみては如何だろうか。って何で書評になってるんだろう。まあいいか。
事実と虚構が違うように、傲慢や欠如と、自信や謙遜は異なる。
大抵の場合、自己の自己による評価というものは、誤っているものだ。過信か、卑屈の虫がまとわりついている。かと言って他者の評価も正しいとは言えない。何故なら、ごく一面しか見ずにその判断は下されているからだ。ならば、一体正しさは何処にあるのか。
僕が思うに、正しさや正確さの類は、先にしかない。今の虚勢や卑屈が、近い未来か遠い未来かは知らないが、そのうち正しくなる。その時はその時でまた異なる正しさがその人の中ではあるのだろうが、ある時点から見た正しさで言うならば、それがきっと正しいということなのだ。
不確定で不明瞭な「先」に正しさがあると言うのも滑稽な話ではあるが、どうにもそうとしか言いようがないので仕方がない。ああ、逆に言えば、過去にも正しさは存在する。これは常に結果論となるので不変とも言えるが、置き去りにされた正しさなどに意味はない。変化する事こそ正しさの本質であり、意義であると僕は考える。不変かつ絶対的な正しさなど、盲信か狂信の類でしか、ない。
*
とある方の日記を読んで。
勉強とは何だろうか。日々勉強と言う名の暗記問題に取り掛かってる諸氏からすれば、苦痛かそれに似たようなものでしかないであろう勉強。それに一体どんな意味があるのだろうか。
知る事は、人間の根源的欲求の一つだ。知に対する欲が今の社会を作り上げ、人を宇宙の先にまで押し上げた。果たしてそれは「勉強」の成果だろうか。本当に「勉強」は人を幸福へ導くのか。
知への欲求と言うのは、人にもよるだろうが、概ね偏執的かつ、盲目的だ。一つの分野に関して、異常なまでの関心を示す。あれも、これも、と言った欲求は、あまり生まれない。僕の尊敬するとある人は、僕が数式で質問をした際に、こんなことを言っていた。
「数式をずーっと眺めてると、あら可愛い、ってな所があるのよ」
申し訳ないが、僕は「頭がおかしいのではないか」と思った。何せ、日々苦しめられている数式である。可愛さどころか、憎らしさまである。しかし、あの方は「可愛い」と形容し、また僕の親しい友人は目を輝かせて――頭を掻き毟りながら――そのような数式に挑んでいた。
つまり、こういう学術的な世界は、好きこそものの上手なれ、を体現したような世界なのだ。そりゃそうである。知に対する欲求、知りたいという情熱がなければ、人生の全てをかけても解けないような問題に立ち向かえる筈がない。果たして、そんな彼らは「勉強している」と自覚しているのだろうか。
勉強とよく同義で使われるのが、「努力」と言う単語だ。この単語同士は、ある点において非常に似ている。それは、「自覚して」使われるところだ。今勉強している、今努力している、と言う風に、自ら発する場合は殆どが「勉強している、努力している」と知って(自覚して)使われる。問題はそこである。普段僕らが「欲」を実感する事は余りない。後になって「欲張りすぎた」などと気づく事はあるが、本質的な欲求に対して人間は、驚くほどに鈍いものだ。先の例で挙げた「あの方」や「友人」は、恐らく「勉強」していたとは微塵も思っていなかったに違いない。やりたいから、好きだから取り組んだだけで、それは勉強でも、努力でもなかったのだろうと思う。
確かに好きな事や、やりたい事は欲求だけで済ませられるとは思えない。努力や勉強も必要だろう。しかし、それが全てではない。そんな事よりももっと大事な事が、彼らの胸の内にはあったに違いないのだ。だからこそ「勉強」や「努力」なんて苦しみでしかないものを、やる事が出来た。
僕が最初の方で「勉強と言う名の暗記問題」と言ったのは、そういう含みを持たせてのことだ。「ゆとり教育」だなんて言ってはいるが、見たところ中身なんててんで同じで、多少範囲や深さを削ったに過ぎない。授業なんてものは退屈そのもので、興味や関心など毛の先ほども生まれない。本来ならば、興味や関心をもたせる所から始まるべきなのだ。「君たちの生活は、こういった知識の積み重ねで成り立っている」だなんて説明は望んじゃいない。つまり、今の教育現場は、出発地点にすら立てていないのだ。ただ記号じみた知識を詰め込み、どれほどそれを暗記出来たか競うだけである。そしてそれでもって、人生の優劣が決まる、と思い込んでいるものだから、手に負えない。
古代の哲学者は、「嫌いなものと触れ合うことこそ生きる意味だ」と説いたが、無関心であるものに無理やり触れさせられる苦痛は、嫌いと言う感情とは異なる。嫌いと言うことは、形は違えどその対象に興味や関心があるという事だ。多くの「勉強嫌い」と言われる子供たちは、恐らく「嫌い」になる前提条件すら満たせていない。嫌えないのだから、好きになれというのも無理な話だ。
勉強をして、いい学校に入って、いい会社に勤めて、いい給料を貰い、お金がたくさんあるから人生幸せ、なんて、さもしい価値観の子供にしたければ、そりゃあもう熱心に勉強をさせればいい。必要なのか、重要なのかの見極めが重要である。国語が出来れば困らないだろう。しかしある程度読み書き出来れば、さして重要じゃない。数学が出来ればさぞ引く手数多だろう。しかし実際買い物で目を白黒させつつ会計する程度でも十分やっていける。歴史だとか地理なんてのは脳の肥やし、精々恥をかくかどうか程度だ。
あなたの子供に本当に勉強が必要なのか。それはあなたの子供の人生において重要なのか。その見極めはあなたにしか出来ないし、あなたがするべきこと。「子供の幸せのため」と信じるならば、それが「先」の正しさになるようにすれば良いのだと、僕は思う。
*
某氏のもやもやを晴らす為と、少々気にかかったところがあったので。
凜というサイトと、ESIODELICAと言うサイト間での問題なので、本来ならば部外者である僕が口を挟む事じゃない、と言うのは重々承知なので、微妙に一般論化もして普通の方も知識として読めるようにする。
まず、他のサイトを論じる場合は、そのサイトでは出来る限り行わない方が良い。igoa氏の尊敬なさっている野嵜氏も、僕の知る限りでは必ず「自分の日記内」で論じていた筈。と言うのも、自分のサイト内で書いておけば「これは自分の意見であり強制ではない」と言う意味合いが強くなるから。相手先までわざわざ出向いて論戦をかます、と言うのは、その時点でもはや「自分はこう思う」の範疇を抜け出ている。
第二に、HTMLだとかについては、アドバイスは受け付けられる限りするべきかもしれないが、結城氏の主張するように、「それで良い」と思っている人には、何を言っても意味はない。確かに宣言などで「これはHTMLですよ」と言ってしまえばW3Cの主張する仕様書に準拠せねばならないかもしれないが、ああ、この事については後述するとして、むしろ、雑多にあるブラウザに逐一対応するよりも、ある程度の域――それが自分の環境で正常に表示される、でも――で完成してしまえば、後はコンテンツの充実に時間を充てた方が、より建設的とも言える。と言うよりも、僕個人の意見としては、絵が中心のサイトでW3C準拠する必要は、余りないのではないか、と思う。クロスブラウザなんてのは多大な労力を割くわりには効果は薄いし、下手に配慮するよりもいっそPDFだとかFlashだとかにしてしまった方が、より「表示」までデザインとして見がちな絵師界隈の方には受け入れられそうな気がする。そもそもの「あらゆる環境で表示出来るように」とのHTMLの理念と、画像や絵が中心の絵師界隈は、相容れない存在とも言える。
逆に、僕のような文章しか無いようなサイトは、W3Cの仕様に従う利点が多い。絵とは違い、テキストブラウザや音声読みあげブラウザでも、正しいHTMLさえ書いておけば「読む」ことは出来るからだ。と言っても、僕のサイトも厳密には正しいXHTMLを書いていないのだけど、リンクには入っているのに僕は突っ込まれない辺り、どうなのだろう。
あんまりあれこれ言うのは語りつくされた感もあって気が引くので、そろそろまとめ。結城氏はどこぞのリファレンスサイトの様に誤った文法を吹聴していた訳でもなければ、igoa氏の動機によると「結城氏のサイトのファンだから」と言うことだそうなので、ファンなら「期待や要求」はしないでおきましょうよ。「結城氏の出すものが即ちベスト」ってのが、本当のファンの姿勢ではないかなあ。傍から見ると、ただの暴徒にしか見えない。先にもちょっと書いたけれど、HTMLってのは手段な訳で、その手段を有効に使うためのガイドラインを作ったのがW3Cってだけ。多くのブラウザはそのガイドラインに沿って(違いはあるけど)作られているから、そのガイドラインが「絶対」な印象を受けるけれども、どう使おうとユーザーの手に委ねられた時点で、自由になっている。と言うか、英語ですら文の要素の解釈がさまざまなのに、「国会答弁」なんてのまである日本語にそれを持ち込んで、正しい「論理構造」を保ったまま「要素」を抜き出してマークアップするなんて芸当は、早々できるもんではない。もし仮に可能だとして、それによってイレギュラーなデザインを廃した、均一的なWebの世界がW3Cの理念ならば、僕はそれには決して従わない。今の所、従う利点を見出せたから、自分なりに正しそうな(最近あまり気にしなくなってきた)HTMLを書いているだけである。
あ、一応片方叩きってつもりではないのでフォロー。結城氏の主張も確かにどうかとは思う。お互いもう少し柔軟な思考とか姿勢ってのを持つべきじゃないかな。人間として否定されたんじゃないんだし。たかがサイト、されどサイト、ってやつなのかしらね。
美味しい紅茶の入れ方。略しておいコー、とか。
まず茶葉を用意。ニルギリだろうがウバだろうがキャッスルトンだろうが何でもよし。贅沢は言ってられないのでここではティーバッグ。リプトンのイエローラベルでも、入れ方次第で十分美味しくなる。
鍋に水道水を入れて沸騰させる。下手にミネラルウォーターを使うと、逆に水に含まれるミネラル分の所為で味がおかしくなるので、変な背伸びはしなくて良し。ぼこぼこと沸騰したら、少しカップをお湯ですすぎ、カップを暖める。そして大体7分目くらいまで入れたら、カップの淵からゆっくりとティーバッグを滑り込ませる。振ってしまったり、スプーンで絞ったりしてはいけない。エグ味が出てしまう。
カップの上に適当なお皿を乗せて、数分蒸らす。茶葉や好みにもよるが、大体1分から3分。これ以上入れておくと、やはりエグ味や苦味が強くなってしまう。砂時計でも置いて、ゆっくり本でも読みつつ待つ。
時間が来たら、入れた時と同じように、ゆっくりと持ち上げる。落ちる滴はなるべく最後まで。そこに砂糖とミルクをお好みで入れれば、普通のミルクティーの出来上がり。
砂糖大匙2杯となみなみと注いだミルクで元の味なんかお構いなしにぶっ壊してみたりすると、僕好みの味わいになるのでお勧めです。台無し。
*
何かを論じる時には、感情や先入観はひとまずどこかに置いてから、論旨をまとめると良い。また、それを相手に伝えるときも、論旨を第一に、しっかりとその論拠や思考の過程を分かりやすく伝えた方が、相互の誤解なく話しを進められる。
それとは別に、その論が相手にとって有用で、同意すべき必然性を伴うかどうかも考慮に入れねばならない。軍人に平和を説いても意味のない事であるのと、同じ事だ。
つまり。igoa氏の論旨は、「W3Cに準拠すべき」と言う点と、「数種類のブラウザにも配慮をすべき」と言う点に集約されるわけであるが、そのどちらも、結城氏にとっては、何ら「同意すべき必然性」のない主張であると、出来るなら言う前、少なくとも議論を進めるうちに、気づける筈である。
昨日書いたように、イラストがメインである結城氏のサイトでW3Cに準拠する必要はない(もっと言えば、HTMLを使う必要さえない)のであるが、今や一般化し、根本である「文章のマークアップ」と言う活用法以外の道が作られたHTMLという「手段」を用いて、サイトを運営しているに過ぎないのだ。また、ごく少数派のブラウザに対する配慮も、本来ならば結城氏が自覚的に対処すべきであり、他人がとやかく言うことではない。確かに進言までにとどめておけば良かったのだろうが、「少数派を蔑ろにしないでくださいよ。ブラウザは IE だけではないのですから
」と言う発言にまで至っては、最早マイノリティーによる暴論だ。
昨日の記事に概ね賛同して頂けたと言うことは、言葉が「確かに通じるもの」として、あえて書く。感情を正論で誤魔化してはならない。「結城氏の絵が好きだから」と言うような事を言いつつ、消された19日の文章は何だったのか。感情的になってしまった、だとか、その場の勢いだった、などと言い認める暇があれば、その当事者に対する、皮肉ではない誠意ある謝罪をまず行うべきではないのか。僕が先の記事を書いてからもigoa氏は結城氏の掲示板に書きこまれている。確かにこれは引用の範囲内であるし、それをそうと言う必然性も納得できるものではあるが、長々とgoo辞書や他サイトの原文をそのまま引用し、その上でURIも併記する必要はどこにあったのか。掲示板のスレッドの流れからも、igoa氏の先の書き込みのような「あてつけ」としか受け取れない。
先の記事の重複にもなるが、今やHTML+CSSデザインは、大きな変革期を過ぎた辺りに居ると言える。ただの「文章をマークアップ」するためだけの言語から、「デザインをするため」の言語になりつつある、と言うことだ(Blogの台頭や、CSSコミュニティの存在)。そこで立ちはだかったのがブラウザ間の違いや未実装機能やバグである。個人であるWebサイト管理人がその全てを把握し、理解し、噛み砕いて納得出来るまでには、多大な時間を要する事は想像に難くない。そして、その割りに得られる見返りは、少しばかりの自己満足と、微々たる人々の喜びだけと言う実情もある。また、正しく書いたXHTMLでも、ブラウザによっては誤動作をする。間違っていても、正しく(正しいようにみえる)表示してしまうブラウザも存在する。そのどちらもバグであると言えるし、W3C信者やHTMLオタクでもない限り、「ブラウザのバグ」と誤認してしまうのは、致し方ないことだ。
古いブラウザや、厳格なエンジンを持ったブラウザを使用していて、きちんと表示されないサイトは数多くある。しかし、その害は何もそのブラウザの使用者だけでなく、「正しく見てもらえない」管理者に対しても言えることだ。だからこそ多くの管理人は「自分の力量不足や配慮不足」を自覚し、より博識であろう閲覧者に、「良ければ助言をください」と明記している。しかし、求めているのは「助言」であり、「強制」や「暴力」ではない。当然、「対話が成立していないことを認識出来ていない人間」も、だ。
物事に取り組むタイミング同様、引き際も大切である。igoa氏が賢明な人間であることを願う。
後、蛇足になるが、先の記事の「某氏」は直接の関係が無い為に濁した。本文や論旨にも微塵も関係ないし、某氏自身も、公開された場ではこの件について触れていない。僕個人の動機について書いただけであるので、大した意味はない。
*
加納氏にまで、先の件について意見を頂いた。
igoa氏は果して「他のサイトを論じ」たのだらうか?ただ、ブラウザによつては表示に不具合があるので改善してみてはいかがか、と注進しただけなのではないだらうか?そして、その手の注意を受けた制作者は、お礼を言ふのが筋ではないだらうか?そして、よりにもよつて「あなた」だの「子供じゃないんだからそろそろやめません?(笑」だのと言ふのは、それこそ「子供」の所業であり、それに対して怒りを露はにするのは、正当なことではないのか?
まず、igoa氏は、上の意味段落でも書いたように、「注進」から逸脱した行為を行われた。概して、注進や忠告と言うものは相手の意思を尊重して行うものだ。同意するか否かの権利が、相手にある状態でこそ、注進や忠告と言ったものが成り立つ筈。しかし、igoa氏は(厳密には氏と断定された訳ではないが、氏も否定していないので肯定と受け取って)再三に渡りWeb拍手で結城氏への「注進」を行っており、その都度結城氏はそれを否定どころか嫌悪していたにも関わらず、氏はそれを止めようとはしなかった。それどころかBBSにまで乗り込む始末だったので、昨日の記事を書くに至った訳です。論じたかどうかについては、やはり注進に留まらず、結城氏の姿勢批判やらサイトの欠陥批判にまで言及が及んでいたので、「論じた」としました。確かに結城氏の姿勢や対応にも「問題は無かった」とは言い辛いものがあるのですが。
そもそもWWWは論文閲覧システムだつたのだから、imgのやうな要素が例外的なものであることは言ふまでもない。それよりも、そのやうな原則論が通じない現状において、いかなる方法をもつて折り合ひをつけてゆくか、といふことを議論すべきではないか。私は絵師サイトでも正しいHTMLとCSSを使ふサイトを知つてゐるし、そちらの方が良いに決まつてゐる。「テキストサイトと絵師サイト」といふ二元論は、多くのばあひ二者択一の問題に還元され、本来の多様性に富んだ議論を皮相な次元に引き降ろし、各おのの立場を理解せよといふ極めて安易で通俗的なお説教しか導き出せない。そして実際、天野氏はこの手のお説教を水で薄めるやうに展開し、喧嘩両成敗といふ、氏が反発する「さもしい価値観」を開陳してゐる(やうに見える)。
これについては少々言葉足らず――最近どうも書くもの書くものが長文になってしまっていけないと自戒している最中――だったので、補足。特に「テキストサイト」と「絵師サイト」と言う二元論を持っている訳ではなく、例として結城氏のサイトと僕のサイト、つまりたまたま「絵師サイト」と「テキストサイト」だった二つを例に挙げたまでであり、加納氏の様に「どちらの方が良いに決まっている」と思った事はない。某掲示板群や多くのサイトでその手の議論はされて来たし、大体の意見も納得し得る理由があると思っているので、利害や得手不得手を心得て扱えば良い、とだけは思っている。加納氏の言われるように、CSSコミュニティ(カスイケなどなど)を覗いて見ても、「正しい(X)HTMLとCSS」を使った絵師さんのサイトは多い。僕自身絵は描けないので、内情はどうのこうのなどと言うつもりは毛頭ないが、「表示」、つまり視覚的デザインに徹底的に拘るなら、PDFやFlashなどを使ったりした方が、自由度も表現度もよっぽど高いと言うのは、昨日書いた通り。しかし、それでは利便性や、Webの性質を十分に生かしきる事が出来なくなってしまう。だからと言って、「HTMLでサイトを作成するならば、正しく、W3Cの仕様書通りに行うべきだ」と言うのも、いささか納得が行かない。その点の思考については先のigoa氏に向けて書いた段落(変革期云々)にも少し書いたのですが、如何でしょう。
お説教を水で薄めるように、と言うのは、自分でもなんとなくは思っている所で、どうも主題をこねくり回しているうちにあれこれと思う癖がありまして。昨日の記事は、部外者からの意見であるし、なるたけ「一般論」に(余り好きではないのですが)なるように書いてしまったので、よりその面が強く出てしまったのだと。喧嘩両成敗のくだりは、当人にはあまりその気はなく……と言うか他人がどうこうしてようが余り気にしない人間なので、これもまた一般論化した過程でなってしまったとしか。引け目を感じずに書ければ良かったのだけれど。
「イレギュラーなデザインを廃した、均一的なWebの世界がW3Cの理念ならば、僕はそれには決して従わない」といふ点は同意。しかし、それまでの仮定部の論の運び方には同意できない。
「『国会答弁』なんてのまである日本語にそれを持ち込んで、正しい『論理構造』を保ったまま『要素』を抜き出してマークアップするなんて芸当は、早々できるもんではない。もし仮に可能だとして」といふ仮定は、いささかならぬ誇張がある。国会答弁だらうがなんだらうが、その文章がいかなる文法上の意味をもつか、といふのは、常識的に考へてある程度までは絞り込める。リストを段落でマーク付けするのはをかしいし、段落を見出しでマーク付けするのもをかしい。そもそも、天野氏がそこそこ妥当性のあるマークアップをしてゐる時点で、「もし仮に可能だとして」といふ仮定は成り立たないではないか。仮定と結論が一致してゐるものが論理的な文章だとすれば、一致してゐないこの文章は非論理的であり、ゆゑに正しくない。
やはり、加納氏には敵わない、と思わされる。仰る通り、破綻している文章です。指摘されて気がつきました。ここで言おうとしていた事は、ままある「デザイン上の意味」を持つ要素や属性の記述を「イレギュラー」として廃する、つまり文章自体の正否に重点をおくのがW3Cの理念ならば、僕はそれには従わない、と言う事でした。以下ちょいと蛇足。国会答弁と言う例えも、論の運び方によってはまかり通ったかな、と。あの日本語だからこそ成し得る空虚は、何も国会と言う場だけでなく、日常、Webでも行われているのではないか。段落やリストなどと言った基本要素こそはどんな文章であってもマークアップ出来るが、強調や、その他意味段落としてのDIVなどでマークアップする際には、大きな誤差が生じる。先述の様に、デザイン上の要素や属性などの記述がままあるように、「本来必要の無い」要素まで取り込んでしまうこともある。結城氏のサイトでもその様な例(レイアウト上の要素)があるため、あのような例えが浮かんだのだが、今書いているこの文章は後付であるし、結局の所先の文章は破綻していた。本当に申し訳ない。指摘に感謝します。
まさか加納氏に反応頂けるとは予想だにしていなかったので、大変有難く。あ、日本語云々と言ふ逆上の仕方
と言うのは、やはり先述のWeb拍手による粘着の件があるので、結城氏の心情を慮ると仕方がないかと。
*
より知的な意見を、こと自分に向けて発せられると、未だに脳が処理遅延を起こし始める。それが終わる頃には少し高い視点からまた見れる様になるのだけれど……。
なんだか補足がまるで補足になってないどころか、余計ややこしくなった感があるのは一体どういうことか。もう少し唸ってみる事にしよう。
現在午前五時半。これから布団に入ります。
どうやら結城氏の方は姿勢を固められた様なので、加納氏の記事への反論……と言うほどのものがまだ脳内で固まってないのですが、ともかく返答をする際には、なるたけこの件には触れない様に行うことに。
今から幾ばくかの睡眠をとり、10時間近く軟禁された後に、頭の調子が良ければ今夜中には書けるかと思うのですが、何しろ明日はお祭り故、最悪24日以降まで頭が回らない気配がします。
土壇場こそ踏ん張らねば。今日の睡眠は明日のための休養、一瞬の休息は次の為の覚悟。と言う事で、夢の国へ行ってまいります。
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と言うわけで加納氏へ向けての反論……になるのでしょうか。自信がなくなって来ました。
むろん気づくことができた可能性はあるし、私や天野氏は気づいただらう。けれども、私が前日書いたやうに、そこに「妥当性」が認められるならば、説明や弁明、反論できる可能性もあるはずだ(cf:説明とは何か -Poesia)。そして、私は引き下がる対応もあつただらうといふ点も見逃してはゐない。つまり、私は半ば意見を宙吊りの状態にしてゐるのだが、それは、天野氏の断定的な評価に異を唱へてゐるためだ。
これは、この後の段落にもあるように、
といふ経緯を読めば、氏の意見にも納得できる。私が昨日見たところ、両氏どちらのサイトも、「再三に渡りWeb拍手で結城氏への『注進』を行っており、その都度結城氏はそれを否定どころか嫌悪していた」といふ事実に関する記事は見当たらなかつたので。私が目にしたのは二つの結城氏の返信(Web拍手のはう)であり、それは改正案の提示といふigoa氏の行動に対してはあまりに無礼千万な振る舞ひに見えたのです。事実誤認があつたのなら申し訳ありません。
僕の背景記述が足りなかったのに問題が。度重なる粘着により、妥当性が私怨に近いものに摩り替わっていってしまっていた――だからこその「感情を正論で誤魔化してはならない」と言う言葉でした。この言葉に関しては、また後述します。
いかにも天野氏らしい言ひ分ではある。しかし、2004-10 indexにおいて、「マイノリティー」である「障害者」とその環境を、愛の確認作業の厄介さと結び付け、それゆゑに嫌悪するといふ氏らしいアイロニカルな文章が、ここでは「マイノリティ」への逆差別による特権化といふ、数年前に論壇で盛んに行なはれた議論の、二歩も三歩も後をなぞつてゐるに過ぎない、平板な文章に成り果ててゐる。
マイノリティによる暴論の一文は、正直申しますと皮肉です。自分でも問題のある性格だとは思うのですが、「何故そんな事が分からないのですか」と言う、個人的美的感覚に反した事柄を目の当たりにした時の反応が、まさにこの一文。天野と言う人間はマイノリティだろうがマジョリティだろうが知ったこっちゃなく、どちらがより妥当性や正当性があるか(この辺の思考において、加納氏の説明とは何かの文章は、大変参考になりました)の方に重点を置く思考をする人間であると言うのは、何度か書いた事があったので、ついそういう自分の姿勢も踏まえた(こういう姿勢に反した事を言うのが「どういう意味か」と言う)言葉を吐いてしまう。ログや理論の引き出しは常に整理しておくべきですね。加納氏の様に自分の文章を必要なところで引用すると言うような事をすれば、長文化も少しは避けれるように思うので。
それと、20日の文章は一般化して書きましたが、21日の方は思い切り好き勝手に書きました。所々にかなりキツめの文が含まれているのもその為です。
ここでより重要で本質的な問題であるのは、マイノリティの特権化ではなく、「世界標準」といふW3Cの思想、共産主義的傾向に走る可能性が高い思想に対して、どのやうなスタンスを維持すべきか、といふ問題ではないのか(cf:「議論」)。そして、この問題の具現として、両氏の立場が現れたのではないか。その意味において、私は、天野氏のスタンスの取り方に同意したのである。
歴史や政治経済に明るい訳ではないので「共産主義的傾向」と言う言葉がどれほどの意味を持つのかいまいちピンと来ず、加納氏の該当文書は以前読んだ事があったのですけれど、この手の話題で使うことはありませんでした。ともかく、先の「どちらにより妥当性があるか」と言う思考において言えば、「共産主義を否定する」事になるのでしょう。
ちよつと勘弁して欲しい。私の文章は、「テキストサイト」と「絵師サイト」の二元論においてそのどちらかを二者択一する、といふ文章ではない。絵師サイトでも正しいHTMLとCSSを使ふところとさうでない所があり、そのどちらがよいかと言へば前者に決まつてゐる、といふ文章だ。しかし、そんな二者択一は馬鹿げてゐるのだから、「いかなる方法をもつて折り合ひをつけてゆくか、といふことを議論すべき」と言つてゐる。
あああ、すいません、二者択一と言う意味ではなくて、数多くある選択肢の内どれを選ぶか、と言う意味での「どちら」です。なんとなくで書く癖がありまして……。その次の段落の、
天野氏は「今やHTML+CSSデザインは、大きな変革期を過ぎた辺りに居ると言える。ただの『文章をマークアップ』するためだけの言語から、『デザインをするため』の言語になりつつある、と言うことだ」なんて言ふが、これは詭弁といふものだ。「HTML+CSSデザイン」がいきなり「言語」の話になつてゐる。この文脈で「言語」といえば、HTMLのはずで、HTMLが「大きな変革期」を向かへてゐるといふのは、XHTML 2.0に視覚的な表現を実現する要素が組み込まれようとしてゐる、といふ文脈でしか成り立たないはずで、しかし天野氏はそんなことを論じてゐるのではないのだから、詭弁と言つて差し支へない。さらに、さういふ詭弁を前提にした文章が不正確であるといふのは、昨日指摘したとほりである。
も、同じような日本語の間違いでした。お詫びして訂正します。CSSは言語じゃないよ……僕の馬鹿野郎。
気を取り直して、「HTML+CSS」のデザインの時点で、既にvalidなマークアップを用いた「デザイン重視」のサイトが生まれてきていると思うが、「strictではない」validなマークアップを用いたサイトを廃し、strictな文書のみが存在する均一化された世界がW3Cの理念(≒これが共産主義的や全体主義的、と言うことでしょうか)だとするならば、僕はそれには従わない、が厳密な僕の姿勢です。
XHTML2.0はまだワーキングドラフトが発表されただけで、僕もその概要は良く知らないのですが、視覚関連の要素が組み込まれるのであれば、当座は安心のようですね。あ、XHTMLは厳密にはXMLのようですが、HTMLの流れを汲むものだと思っているので、脳内ではHTMLの集合の中に入れてしまっています。こういう技術的な場面では、あまり混同したような言葉は使うべきではなかったと猛省。
天野氏の文章は、strictとvalidをそれぞれ志向する立場に、便宜的にでも区別をつけないから、混乱してゐる。私のだした例は、あくまでvalidなマーク付けは可能だらう、と言つてゐるだけだ。極端に言へば、ほんらい段落でマーク付けすべき箇所を汎用ブロックで囲ふのは、validであり、段落を見出しでマークアップするやうな「誤差」は生じない。だから、むろん、この文章は天野氏の「誇張」に対してであるから、今回氏が弁明なさつてゐる文章にも適用可能だ。
もうなんと言うか、穴に入って出てきたくない思いですが、書きます。
思いっきり脳内で混同しておりました。なので、先の文章ではしっかりと区別をつけて書きました。改めて誤差云々について考えてみても、やはり詭弁にしか成りえないと言う結論に至りましたので、同様にこれもお詫びして訂正します。
*
感情を正論で誤魔化してはならない、と言うのは、僕はそこに「卑怯」を見るからだ。
論理に感情はつきものだ。今回の話で言えば、加納氏の「比重が感情ではなく論理のはうにあるとしたら、どうだらうか
」と言うのも当然の話と言うか、感情のない論理の方にこそ、僕は意味を感じない。
と言うのも、論理の妥当性や正当性の根幹、発露とも言えるものが、感情にあるからだと考えるからだ。
論理が生まれるということは、その物事に関して何らかの感情が働いている時だ。それは怒りかもしれないし、悲しみかもしれない。方向は違えど、結局の所「感情」で表現される精神活動により、論理は生まれる。それは相手に感情を伝えるための論理であるかもしれないし、論理を伝える論理であるかもしれない。今回のigoa氏の論理はどんな論理であったか。氏の発言を読めば分かる事で、完全に正論を盾に取った、結城氏を貶し陥れる為だけが目的の「感情を伝えるための論理」であった。
これは僕の親がよく使う手段だ。相手に「認める」か「拒否」する以外の選択肢を与えない「正論」を振りかざし、相手を追い詰める。反論は認めない。何故なら絶対の正義がこっちにあると盲信し、相手は間違っていると決め付け、「正論」によって自分の正当性ばかりを主張するのが「目的」だからだ。
だからこその「卑怯」なのだ。自分の非は決して認めない。認めたとしても、本質的な所では絶対に譲らない。決して揺るがない「自我の牙城」から、感情に任せて正論と言う矢をちくちくと相手方に撃っているだけなのだ。そしてその城で後生大事に守っているのが、歪んだ妬みや私怨だと言うのだから、もう言葉も出ない。
昨日、とある方との話の中で、「論理と感情のバランスが大切だ」と言うような結論に至った。論理ばかりでは「気持ちの問題」は解決出来ない。感情ばかりではお互いの確執が深まるばかりである。
とは言っても、バランスを要求されるのは対話の時だけであり、それ以外の場合……つまりこういう場合には、僕は遠慮しないことにする。勿論、選択肢は考慮に入れて、ではあるが。
*
もう少し整理が上手くならないものかな、と思う。部屋も頭の中も、雑多に積まれたものでいっぱいだ。どれを手にとっても、何だか重要な気がして、またもとの場所に戻してしまう。
ああ、インターネット越しに某氏に風邪をうつされたかもしれない。念の為感冒薬を飲んで寝ておこう。とりあえず今日半日寝込んだら頭痛は治まったので、明日は気合で踊るしかないか。
お祭りより生還。最初と最後くらいしかまともに聞けなかった……。
前回とはDJブースの配置が変わっていて、非常に動きやすくなってたと言うのが第一印象。DJブースと対になるように配置されたアンプからは音の暴風が吹き荒れ、アンプの間に下げられたスクリーンにはROBA氏による物凄く頭の悪い(褒め言葉)素敵ムービー垂れ流し。その前には腕を大きく振り、「おっぱい!おっぱい!」と叫ぶ集団。頭悪い(褒め言葉)。
茶箱内では慢性的頭痛に悩まされていたので、印象に残った部分だけを列挙。前半は普通のクラブのようなハウス主体。皆選曲もプレイもお洒落すぎ。途中で何やらマイクで「高校生が大好きです」とか聞こえた気がしますが多分聞き間違い。NICE氏は普通にプレイが上手い。いせロビン氏はヤバい。ゲームボーイやってた。あれが噂のナノループだろうか。ともかく前回まともに聞けなかったのが悔やまれる。くそう。
最後のトリを務めるあざーむ氏は本当に、絶対、ごめん、狂ってますよ。前半のブレイクぶりは歴史に残ると思う。フロアの人らはドン引きだった気がするけど、いせロビン氏からのあの流れは個人的Log-2-Log殿堂入り。
と言う訳で何ら感想になってませんが、未だに頭痛が痛いので勘弁してください。リネージュやって寝ます。
*
書かなくても本人には分かると思うので。
今更その様な事を言うのは見苦しいとは思いませんか。「前の人」なんて形容はしてはいたものの、明確な否定はされていなかった。その前の流れからも明らかに「前の人」と同一人物とみなされていると分かっている筈だし、「前の人」と言うような形容をしたということは、その事を理解していたと言うこと。しかし、先の通りその事について特に否定はされなかったし、僕や加納氏の言及がなされてからも否定されることはなかった。今更になってから弁明されても言い逃れとしか受け取られないと言うことを何故理解されないのか。
この点はこの件の根幹とも言える部分で、先に「前の人とは別人であり、進言をしているだけだ」と言ったならば、ここまで拗れることは恐らくなかった。この点だけは明らかに貴方の方の過失であると言える。もし仮に別人だったとしても、貴方は故意に勘違いを誘うような真似をしたとしか受け取れない。
どの様に受け取ったとしても、何一つ弁明になってないと言うことを、理解された方がいい。
閃いたので書いてみた。ゴッゴルゴッゴル。
とある方と同じ題で書いてみよう、と言う話になったので、先方もアップされ次第こちらからリンクを貼ってみます。
先刻外へ出たら、こんなものを書いたお陰か、大変良い月を見ることが出来た。雲一つない宵空に浮かぶ、まあるい月がぽつりと一つ。じっと眺めていると、金色とも、黄色ともつかない月の輪郭に、薄っすらと青い光彩が浮かんだ。いよいよこの両の眼も末期かもしれない、と思いつつ、その美しさに暫し呆ける。
衛星と言うのは、どんな気分だろうと考える。物理法則に従い、永遠に近づくことも遠ざかる事もなく、同じ距離を保ったまま、ただ周回軌道上をぐるりぐるりと回り続けると言うのは、一体どういう心持ちなのか。
幸せかもしれない、と思う。それに触れることなく、遥か遠方から美しいままにそれに相対することが出来ると言うのは、幸せではないか。近づいて見ればただ石くれと砂の広がる、荒涼とした地である。そうとは知っていても、やはり陽光を受けて輝くだけのそれを眺めることが出来るというのは、幸せだ。
もしかすると、背伸びをして、手を少し伸ばせば届くのかもしれない。それで知りえるのは「何もない」と言うことだけであっても、それでも手を伸ばす人間と言うものが居る。それが浪漫か傲慢かは欠片も興味がないが、「それ」が「そうである」と知ることで、幸せを感じる事ができるのだろうか。月に降り立つ事のなかったコリンズと、月に降り立った彼らは、果たしてどちらが幸せだったのだろうか。
触れない幸せもあるのだと思う。触れてしまえば、きっと僕はそれを壊す。それ自体は壊れなくとも、僕の中にあったはずのそれは、二度と元には戻らない程に、叩きのめされる。だからこそ、僕は触れない。
臆病かもしれない、とも思う。途方もない現実に触れるのが恐ろしいのだ、と。しかし僕のこの眼に映るあの月もまた、現実であることには変わりない。いつか、ふとした、予想もしないような切欠でそれに触れ、僕の中の月が崩壊するような破壊的美しさもあると同時に、今のこの、虚構にも似た月の妖艶な美しさを楽しむ幸せも、僕は感じていたい。それが例え主観のもたらす紛い物であろうとも、それがそうであるうちは、そうであると言う風に噛み締める幸せを、僕は望む。覚悟していないのではない。甘んじていたいのだ。
刹那の耽美に耽る程に、人は、僕は、かくも弱い。
先方が書き上がった様ですので颯爽と参照。
今日はどうやらネズミの支配する夢の国へと行かねばならない模様。今から寝ると間違いなく起きれないので徹夜する他無し。夢の国で夢でも見ますか。待ってろTDL。
*
圧倒的なまでの喧騒、完璧なまでに作りこまれた世界。
そこは夢と、希望と、少しばかりの不条理混じりな謎に溢れ、僕はその場に居る人間全て消えてしまえばいい、と内心毒づいた。
大人、子供、学生、キャスト。彼らは完璧に「設定」された世界に入り込み、熱狂し、陶酔する。愛らしいキャラクターを模った着ぐるみが闊歩し、そしてそれが喝采され、道行く人は皆一様に満面の笑みを浮かべている。正に夢の世界、夢の国と称されるのに相応しい世界。
アトラクション内では数々のキャラクター達が現れては流れて行き、そのキャラクターの所為か、それとも群集心理や集団の結束の表れか、小さな乗り物に束縛された人々は声を上げ、腕を振り上げ、そして急激な移動により視界から失せる。僕も例外ではなく、同乗した友人と共に叫び、暴れ、一瞬の「スリル」と言う名の快楽に身を委ねる。
幼馴染に薦められたカフェに座し、一時の休息。糖分と水分を摂取しつつ呆けていると、突然現れた同じ姿の一団が、即興でJazzを演奏し始める。ああ、と、僕はその時理解した。完璧に設定された世界と言うだけで、この世界は今日程の信奉者を抱え込むような世界になった訳ではないのだと。
スウィングするドラム、跳ねるベースライン、歌うトロンボーン、吼えるトランペット、囁くクラリネット、踊るピアノ。そして周囲には一瞬のうちに意識を奪われ、ただ歓びの感情のみを表すだらしない顔で、狂ったように手を打つ僕ら。設定しつくされた世界の一寸の余興、突然のそれに意表を突かれて引きずり込まれる観衆。それらが完璧に設定された世界を、完全なる世界へと変容させる。
ごった返す人の熱、見覚えのある衣装に身を包み、自らを「為りきらせた」人、アトランダムに現れては人々に幸せを運ぶキャスト。それらのもたらすものは、疑い様のない幸福と、虚構だったはずの世界が現実に侵食する感覚。なるほど、これほどまでとは。伊達に「夢の国」と呼ばれる訳ではなかったのだと思い知った。
眼前で、自転車とピアノをくっつけたようなものを繰り、それぞれ独立した生物の様に動き跳ねる両の手を盤上で躍らせながら、流暢な日本語で観衆を煽る一キャスト。ここに、この世界の全てが集約されている、と、手拍子を打ちながら考えていた。多くの人を心酔させる絶対的な魅力と欺瞞が、ここには溢れている。
その様相はさながら宗教のそれであり、そしてそれが示すものは、「突き詰められたフィクションはいつしか神格化される」と言う事だ。もしこの事をウォルト氏が知っていて、その上でこの世界を作り上げたのだとしたら。人は、自らの手で楽園を生み出せると言うことに他ならないのだと、そう思わざるを得なかった。
帰途の電車の中、漆黒に塗られた車窓を眺めつつ、その様な事を、熱狂にあてられた頭で考えていた。