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2004-11:index

20041105

ソルファを日がな一日聴いている。

大昔に書いたディスクレビューを見ても分かるとおり、僕の音楽の趣味は偏向的かつ、偏執的だ。基本的には「良いものは良い」と言う考え方ではあるのだが、一般人のセンスから比較すると、どうやらそう言うことになるらしい。だって、TOPxxなんかに入ってるJ-POPなんてゴミばっかりなんだもの。

とは言っても、その中にも光るものはある訳で。玉虫色で仰々しかったり、わざとらしくフランクだったりする詩や、どこかで聴いた事のあるメロディーライン、とりあえず奇抜な音を入れておけば良い的思考でもってコラージュされる音色、そんな誤魔化しだらけの音や言葉なんか要らない。ASIAN KUNG-FU GENERATIONはその辺に好感が持てる。具体的な詩、古臭さを覚える音の旋風。僕は彼らに、季節風のもたらす台風をみる。

感情の吹き荒れる詩、それを後押しするように叩き付ける音の雨。しかし、それを生み出す中心は空虚で、どこか投げやりな感まで覚えさせる。彼らの生み出す暴風と暴雨に、僕は木の葉のように舞うしかない。

つまりは、僕は動揺させられている。歌を聴いて、ここまで揺さぶられることが今までにあっただろうか。先に書いた形容など、はっきり言おう、今の僕の心境からすれば、ゴミだ。言葉では音楽は殺せない。いや、今の僕の精神を表す言葉が存在しない、と言ったほうが正しいか。

言葉とは定義だ。物事に名を与え、活用し、便宜的に区別をつけるために人間が考え出したものだ。では音楽はどうか。音楽は直接的に感覚に働きかける。メタ的な言葉などと言うものでは、及びもしない干渉なのだ。歌は、音と言葉の波状干渉と言っていい。音にかき乱された精神に、容赦なく言葉がのしかかる。双方の重みが増すほどに干渉の度合いは強くなるが、それにしたって、この僕の打ちのめされ様は何だ。畜生。

*

改めて、AphexTwinとSquarepusherの恐ろしさを思い知る。彼らの音は、異常だ。

気が触れているのではないかと思うくらいに作りこまれた一つ一つの音、神業としか思えない程の音像処理、崩壊の一歩手前で押し止められる感覚。AphexTwinは作を追うごとにその傾向が強くなり、最も強くそれが表れているのが、ディスクレビューにも書いたDrukqsだ。規則性の欠片も無い音の羅列に、僕は絶対を感じる。一人部屋で彼の音を感じているときの、あの高揚感をどう表せば良いだろう。無自覚に押し上げられる興奮、他の何物でも得がたい感覚、全ての精神活動が分解され、しかし崩壊する一歩手前で止められたまま、何の抵抗も許されずに引きずり回されるような、悪意すら感じる凶暴性。絶対的、圧倒的なそれの前では、どの様な言葉も意味を成さない。なるほど、テクノ・モーツァルトの二つ名に、全てが集約されている。あるいは、彼は既に人ならざる領域に行ってしまったのかもしれない。

逆に孤高の天才と称されるSquarepusherは、全く異質の存在だ。AphexTwinが本能だとすれば、Squarepusherは理性だと言える。計算され尽くした感のある打ち込み音に、人間臭いメランコリックな生音。人を鬱にも躁にもする二面性。Jazz上がりの理性の裏側を撫ぜる様なリズムに体は自然に動かされ、彼生来とも言えるメロディーラインに陶酔する。

もう一度言おう。言葉では、音楽は殺せない。何故って、この二人が居るからさ。

*

山田なんたらの「8.1」と言う小説を弟が買ってきた。「リアル鬼ごっこを書いた人だよ」と言うので、どこかで聞いた覚えもあったような気がしたのもあって、借りて読んでみる。最初の一話を読んだ所で返した。

正直な感想は、「Webで書いてる素人以下」。何故売れているのか理解不能。金取って売るんだから、もう少し書けるだろう、と言うのを抜きにしても、酷い。

こう言うと爆笑されてしまいそうだが、僕は物書きで食べて行きたいと思っている。それは他に興味や特技がない、と言うのもあるし、ここ数年で書く事の意味が何となく見えてきたと言うこともある。

その理由なんてのはともかくとして、何かを書くと言うことは、それに対して自信を持つ事であるとも言えるのではないか。自分で「全然駄目だ、全くの駄作だ」と思うような作品を投稿したりはしない。そういう意味で、僕はひとまず「自分が納得できる」文章をここに書くようにしている。他人の評価など気にしていてはいつまで経っても人目に見せる事など出来ない。それよりも、叩かれて、揉まれて、踏みつけられて、それでも自分の納得する文章を書いて行く方が良いに決まっている、と考える。

しかしそれもやはり「アマチュア」の思考であって、プロではそんな事は許されないだろう。ある程度の「認められる」だけの実力が要る。僕は現時点ではそこへどうにかこうにか這い上がろうとしている所ではあるが、山田なんたらは既にどうやらそこに居るらしい。実に不条理を感じる。相馬さんや、今メモライズが買収されて読めない某師匠や、むぎさんたちの方が、贔屓目を抜きにしたって断然面白いし、得るものも大きい。恥を忍んで書けば、僕の方が、と言う気持ちすらある。

題材や、作風が「若い世代」とやらに受け入れられるからこそ「売れる」のだろうか。だとすれば、僕は「売れない」作家になりたい。たった一人にだけでも――それが例え僕だけであっても――「良い作品」だと思って貰えるような作品が書ければ。僕はそれを望む。

いや、それですら、高望みだろうか。ああ、そうじゃない、違う。僕が望むのは破滅だ。言葉で人を殺すことが目的であった筈だ。

死に抗う言葉を。死に至らしめる言葉を。僕が望むのは、それだけでいい。

*

命とは、死とは何か

香田氏の動画は見た。グロ動画、グロ画像の類は見慣れて居るので大した衝撃は無かったが、しかしこの手の処刑モノを見る度に思うことが一つ。人の命を、何とも思わない、もしくは、目的の為ならば絶つことを厭わない人間が、存在すると言うことだ。

絶対的な観念の一つに数えられる生死観ですら、価値観によって相対化され、無価値へと変質してしまう。ある人にとってはかけがえのないものでも、別の人にとっては、食肉工場に運ばれた豚と同じような扱い。それが普通なのか、と言えば、そうなのだ。

要は何に価値を見出すのか、と言うことである。命そのものに価値があると言う見方もあれば、僕のように命を「どう使うか」に価値を見出す見方もある。香田氏の例で言えば、僕からすれば自ら危険地帯に乗り込んで行って殺された馬鹿、程度の認識しかない。しかしその一方で、死に行く運命の人に祈りを捧げた事もある。同様に赤の他人である筈の別々の人に対して、僕は正反対の感情を持つ。それは何故か。

香田氏は「死」とは向かい合っていなかった。彼が対峙していたのは「危険」や「スリル」であり、彼が内包していたのは「虚栄心」である。しかし、死に行く運命だったかの人は、死と対峙し、生を見つめ、最後の時まで明朗に振舞った。違いはそこである。

生、命は、かけがえの無いものだ、と言うのには同意だ。しかし、そのかけがえのないものをどう扱い、自身はどう思っているのか、の方が、僕は重要であると考える。恐らく香田氏は、最後のあの時、強くその事を思ったであろう。人は死が眼前に迫るまで、その事に気づこうとしない。人によっては、自らそちらの方に、好奇心でもって近寄る事まである。香田氏の「帰りたい」と言う言葉と、あの人の「生きたい」と言う気持ちは、場合や条件は違えど、全く同じところから来ている筈だ。

生が平等でないように、死すらも平等ではない。どうでもいい死はこの日本ですらそこら中にあふれているし、エンターテイメント(見世物)として死のうとする人なんてたくさん居る。そしてそれらは受け取る人の価値観によって捻じ曲げられ、変質し、いつしか忘れ去られる。

ただの死として受け取るならば、何の気持ち悪さも、心地よさもない。ただの事象だ。結果に過ぎない。「どう思うか」と言うことが気持ち悪い事であり、心地よい事であり、全ては感覚と、思想によって決定されている事に過ぎない。

命とは何か。死へと向かうことだ。死とは何か。命があったと言うことだ。

生や死自体には何の意味もない。それをどう思い、どう考えるか、だ。だからこそ「何で殺すことはいけないのか」と言う疑問はいつまで経っても明確な答えが出ない。それは死や殺す行為自体には意味がないからだ。そこに付加される要素(道徳観や倫理観)が「いけない」のである。無意味な事を「無意味じゃないんですか」と訊いた所で、「はい、そうです」としか言いようがないのではあるが、ある程度の精神の成熟、社会への適合を果たすと、思考が自然に死と「いけない」と言う事を結びつけ、事実と虚構の間で葛藤し、いつまで経っても答えが出ない、果てにはそれをそう思う自己を嫌悪する、などと言う事になる。

醜い、気持ち悪い、心地よい、楽しい。それで結構。そう思えるうちは、まだ「まとも」なのだ。香田氏の命を絶った彼らは、死や殺す事に対して、恐らくそんな観念すらないのだろうから。

20041114

久方ぶりにどうしようもなくなる。最近はある程度割り切れたと言うか、吹っ切れていた面もあって概ね安定していたけれど、それでもやはり僕は人間であるらしい。

どうしてこうも期待されるのか、と思う。例えそれが言葉だけの、表面上、体裁上のものであったとしても、言葉として発せられ、僕に向けて言われるとなると、辛い。僕に一体どれほどの未来があるのか。僕に一体何が成せると言うのか。ただここに居るだけで良いのかも知れないが、それにしたって食い扶持は要る。それは自ら稼がねばならない。どうやら僕には、それすらも難いことであるらしい。

親は「とりあえず大学にだけは行っておけ」と言う。潰しがきくから、と言う理由らしい。ふざけるな、と思う。別に誇大妄想でも、選民意識でもないが、僕は社会の歯車、一部品として生きるような真似だけは御免こうむりたい。阿呆の様に課せられたノルマだけを成して日銭を貰い、生きるくらいならば、橋の下でのたれ死ぬ方を選ぶ。しかし彼らはそれを善しとしない。

世間では僕のような人間をニートと呼ぶらしい。至極、どうでも良い。働く意思がない訳ではない。今、この世界で生きる術が見つからないだけだ。と言っても、都合の良い場所を求めている訳ではない。どんな事をやるにしても、生き得るだけの対価を得ようとしたら、何かしらの苦痛は伴うのは理解している。ただ、それに従事し、僕がそれに対して誇れるような、そういう所が、ないと言うだけだ。

それだけであっても、人によっては「何を贅沢な事を」と言うだろう。それはそうだ。最低限の自意識のラインすら超えれないから、多くの人は悩み、足掻いている。僕にはそれだけの力がない訳で、結局はどう言い繕った所で、無職予備軍の戯言でしかない。

今の僕に、生きる意味はあるだろうか? 死んだら恨んでくれる人は居る。では、僕は生きて、その人に何が出来るだろう。死んでいようが、生きていようが、結局は人の重荷にしかなれないのだろうか。人の為に、と言う前提が間違っているのだろうか。では、僕は僕自身の為に生きたいか。答えは否、だ。

生まれてきた事を、もう恨もうとは思わない。確かに、僕は今まで生きてきた中でさえも、生きてきた事を素直に喜べる要素は存在する。しかし。これ以上はどうか、と思うと、やはり「死にたい」に帰結する。無限の可能性だとか、大きな夢だとか、素敵な将来なんてものに期待するような歳はとうに過ぎた。現実を見据え、現状を理解する限り、僕にそんな可能性も未来も存在しない。老い、衰え、喪失するだけだ。ならば、今消え去ってしまえば、忘却の彼方に僕は消える事が出来る。

それもやはり甘えだろうか。と言っても、その甘えを実行する気概すら、僕にはない。立ち止まり、傍観する事は許されないのだろうか。消えることすら出来ない僕に、一体何が成せよう。

時々、何に対してかは分からないが、非常に申し訳なく感じることがある。酷い劣等感、不公平感、不甲斐なさを、痛烈に。それが愚痴として発せられようとするのを、幾度となく押し込めてはいたが、ここ最近、つい口をついて出てしまう。本当に駄目だ。精神的向上心の欠片もない。僕は馬鹿だ。馬鹿だと知って尚、それを変えようともしない程に。

勝手に産み落とされ、勝手に生きろと言われ、誰とも分かりあうことなく、一人枯れるように死ぬ。ならば。僕は一体何のために存在するのか。このような文章を書き、他者に見下される、共感される為だけの、つまり慰めの為に存在する道化だろうか。

ガードレールに引っ掛けて、強く擦り剥いた右手の傷を見遣る。赤紫に腫れ、痛々しく瘡蓋が覆い被さり、触れば鈍い痛みが走る。しかし、何も感じない。無理やりに瘡蓋を剥がす。鋭い痛みが走る。しかし、何も感じない。赤色の体液が滲み、流れる。それには、否応なしにどうしようもない現実を感じざるを得ない。

畜生、何で生きてるんだ。

20041115

美味しいココアの入れ方、略しておいコー。何か言いたい事があるとは思いますが、お兄さんは気にせず続けます。

まずココアを用意。ヴァンホーテンだろうが森永だろうが何でも良し。ここではたまたま棚にあったヴァンホーテンを使う。次に、作る量に合わせた鍋に粉を適当に投入。濃さなんて後で幾らでも調節出来るので気にしない。ヴァンホーテンは砂糖が入っていないので、これもまた適当に砂糖を投入。そこに冷たい牛乳を少々。ここで多く入れすぎるとココアを練ることが出来なくなり、飲むときのザラザラとした舌あたりが強くなるので、本当に少なめに(チョコレートを溶かしたくらいの粘度が目安)入れる。

ここからが正念場。ゴムベラを用意して、鍋の中でひたすらココアを練る、練る、練る。今の汗が後の美味しさに繋がると信じて練る。ここで良く練っておくと、先に書いた通りザラザラ感がなくなり、とてもまろやかになるので手を抜いてはいけない。十分に練ったら、弱火もしくは中火にかけ、焦げ付かないように引き続きかき回しつつ、少しずつ牛乳を加えてココアをのばして行く。最初は相当気をつけないとあっという間に焦げてしまうので、火にかける前に少し牛乳を足して水増ししておくと良いかも知れない。この辺も適当。

いい色になってきたら、ティースプーンででも味見をしつつ、牛乳を足して飲みやすい味になるまで薄める。僕は濃い味のココアをちびちびやるのが好きなので、大分濃い目の所で火から上げるけれども、アイスで楽しんだり、ゴクゴク行きたい人は少し薄めに作ると良いかもしれない。あまり火にかけすぎると牛乳が膜を作ってしまうので、湯気が立つ辺りで早々に火を止めること。

最後の仕上げに、たまたま冷蔵庫にホイップクリームがあったので、むりむりとココアの上にのせて、出来上がり。単純に生クリームを少し入れるだけで、より味が濃厚になるのでお試しあれ。

以下蛇足。森永のココアなどは、周知の通り初めから砂糖が入っているので、そのままお湯やホットミルクを注いで溶かして作ってしまいがちだけれど、鍋で練る工程を入れるだけで、段違いの味に。また、バターをひとかけら入れると、濃厚なコクがでるので通の人にはお勧め。香ばしい感じやほろ苦さを出したい人は、練る段階で少し火にかけて、軽く焦がしておくと、香りだけでイケます。

20041118

書きたいときに書ける幸せ。もう少し携帯が進化してくれれば、出先でふと書きたくなったときに書けるのに。現状でも無理ではないけど、脳内の言語速度と、現実のデバイスへの入力速度が噛み合わなくて、浮いては沈む思考を取り逃してしまう。いや、むしろその場限りの思考を書き留める必要は無いのだろうか。時を置いて尚、脳内に留まり続けるものこそ書くべきなのだろうか。今の僕には、どちらとも判断がつかない。

*

ろくでもない夢を見る。目覚めたときは、そりゃあ毒男もかくや、と言わんばかりの顔をしていたに違いない。何となく意味は汲み取れるし、そういう趣旨の言葉をもっと別の言葉で言ってもらえたならば、僕は空だって飛べる、と思うのだけれど、しかし言葉が言葉だった。

「あなたの心にツーハンドクイッケン……!」

頼むから誰かこの脳漿をぶちまけてくれ。

以前に、友人の職位で遊んでいた罰が当たったのかもしれない。人は夢すら自由にならないのか。寝ることが余計、苦になった。疲労のない体が欲しい。

*

好きこそものの上手なれ、と言う言葉がある。僕が以前空手を習っていたとき、こんな奴がいた。同じ道場生で、同い年。背こそは僕の方が頭ひとつ分高かったが、体つきの良さで言えば彼には到底及ばない。僕の方が一年程早く始めていたので、級には大分開きがあったものの、いい具合に好敵手、と言った感じで、よく組み手や練習をやっていた。

僕は元来怠け者らしく、大体の所で出来れば、完璧にはしなくていいや、と諦める性質である。それは空手においても例外ではなく、週に数回の練習もそこそこで、練習の後に居残って自主練習なんて、とてもとても、と言う人間。しかし、彼は違った。毎週毎週、律儀に練習開始の三十分前にはやってきて、一番遅くまで居残って練習をしているらしかった。僕はと言えば、それを聞いても「よくやるよ」と言った感想しか持つことはなく、それ以上は、むしろ自覚的に、考えないようにしていた様に思う。

怠ける者と、勤しむ者。どちらが良く伸びるかは自明の理で、半年も経つ頃にはほぼ互角、まじめに試合をやったら、どうかすると僕が負けてしまうかも知れないほどに、彼は上達した。僕は尋ねた。「練習は苦しくないのか」と。すると彼は笑って、「楽しいじゃないか」と、さも当然のごとく言ってのけた。

継続は力なり、と言う言葉がある。僕は高校入試を理由に、三年続けた空手を辞めた。今思えば、怖かったのかもしれない。意図の無い追撃が。怠惰故の落ちぶれが。

空手は好きか、と問われれば、僕は素直に頷く。では、続けられるか、と問われると、僕は未だに答えることが出来ない。彼は今も、あの真っ直ぐな眼をして、あの道場に居るのだろうか。一時ではあるが、拳を交えた僕は、胸を張って彼の前に立てるのだろうか。

好きこそものの上手なれ。継続は力なり。どちらも似たような言葉であり、意味するところは、同じだ。好きだろうと続けなければ意味がない。続けていても好きでなければ何にもならない。

好きなことを続けることは、難しい。その道程にはいくつもの誘惑と、罠が待ち構えている。わき目もふらず、息せき切って走りきれる大馬鹿野郎だけが、到達することが出来るのだ。

*

文章を書くことは好きだ。多少の空白期間も含めれば、Web上に文章を書いてアップロードをし始めて、もうすぐ五年が経とうとしている。僕はどこまで来ただろうか。僕はどこまで行けるだろうか。いや、少しでも、進んでいたのだろうか。

progressistance。progressiveとresistanceを掛け合わせた勝手な造語。そうであって欲しいと言う願い。いやいや、やるのは僕だ、願ってどうする。そうであり続けたいと言う意思。そうであると言う自負。そういうものを込めて、長さなどお構いなしに、そう名付けた。

馬鹿らしいと思うかもしれない。何を大層なことを、と嘲笑ってもらって構わない。そうやって静観決め込む様な人間を僕は知っている。そういう人間がどういう風に鬱屈し、どういう風に歪んで行くかを、僕は、知っている。

その先にあるのは自発的な、自意識的死だ。厭世の環に入り込み、必死に自己正当化の言葉を並べ立て、「どうせ自分は」と思いながら朽ちてゆく。

手段は、一つしかない。死にたくないのなら、死にたくないのなら、死にたくないのなら。

20041122

最近どうも更新の間が空いて良くない。幸い、長い日記生活のお陰か、時間を置いても「書けなくなる」と言うことはなくなったのだが、問題はそんな所ではなく、書くべきものが見つからない、書こうと言う気概が沸き起こらない現状。

要因は色々とあるような気はするが、他に理由を求めてはいけない。全ては回らない脳と動かないこの両の手の責任だ。そういえば、八割方文章を書いてから全て消して書き直すことも多くなった。これを文章力が上昇したと見るか、低下したと見るか。

どちらにせよ、書いていれば分かることだ。怠惰は大罪である。強く自戒せねばならない。

*

いつごろからか、と言うのは記憶していないと言うか、記憶がないからこそ記憶出来ないのだが、ともかく時折記憶が飛ぶことがある。

と言っても、危ない薬を服用しているだとか、度を越した飲酒をしている、と言う訳ではなく、単純に、日常生活の中で、ふと気づくと時間、つまり記憶がごっそりと抜け落ちている。気づき始めたのは朝、自転車をこいでいる時だった。家を出たところまでは覚えている。人でごった返す駅前通りを通り、裏路地に入り、数駅分進んだところまでは、覚えている。しかし、突然ある地点で記憶が途切れ、今居る場所まで、どうやって来たのか、さっぱり記憶がない。

ぼーっとしているだけ、と言われれば、納得出来ないこともない。元来ぼーっとしている、と言われるし、自分でも抜けたところがあると思っている。しかし、ぼーっとしていても、ぼーっとしている意識はあるはずだ。ぼーっとしている意識すらない、まるで白昼夢でも見たかのような感覚。

ふと、あれが永遠に続くのが死なのだろうか、と思った。完全なる空虚。もしもこの先、あの状態になる時間や頻度が増えて行くとしたら……。

……軽い眩暈を感じるのと同時に、おぞましい安堵が意識のどこかに浮かび出る。永遠の空白。恒久の停止。立ち上る様な死の予感。

恐らく杞憂であろう事は分かっていても、やはり変な思索をしてしまう。メメント・モリ。僕は思うと言うよりも、望んでいるのだろうか。

20041125

業務連絡。例のあれは見事に落選しました。佳作にすら引っかかりませんでした。よって周辺諸氏に振舞うはずであった肉祭りは無期限延期と言うことになりました。天野先生の次回作にご期待下さい。

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……等と面白おかしく書いてみるものの。個人的には、今まで書いた中でもかなり「良く出来た」方であると思っていたし、出したのは大体同年代、と言うか実質年下しか存在しないコンテストだった訳で、そんな所ですら評価されない文章でもって何かを表現しようとしている僕は、一体何だってんだ。

比較した所でしょうがないと言うことは分かっている。分かってはいるが、受賞者名簿をゆっくりと探し眺め、最優秀を見つけ落胆し、確かめるように視線を下げ、そして佳作の最後の項目が過ぎた時の、あの様は何だ。僕が持つ思考は「肉が食えなかった」だけで良い。何の劣等感も、敗北感も、焦燥感も感じる必要はない。そんなものは雑音にしか過ぎない。冷え切ったそれは僕に纏わりつき、ひと時の間熱を奪い、そしていつの間にか溶け消えてしまっている筈だ。それならば書け。忘れるまで書け。冷えようが頭は働く。凍えようが指は動く。ならば、書け。

20041126

昨日書いた通り落選したので、送った作品をそのまま掲載。今よく見ると手直ししたい所がいくつかあるけれど、あえて原文そのままで。ちなみにアーカイブには入れないので、その辺ご注意を。

削除済み。

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陽光鋭く、吹き荒れる風は心にまで染み入る冷たさ。沈みかけた強い西日を横目に、赤紫色の空を見上げる。

メールが一通。久しく着信はおろか、メールすら来ない端末を何となしに持ち歩いているものだから、気づかなかった。内容は遊びの誘い。「先立つものがない」とだけ書いて返信を送る。返事は返ってこなかった。

時々、へし折って放り投げてしまおうか、と思うことがある。時刻確認はiPodで事足りる。目覚まし代わりにしているタイマー機能だって、目覚ましを買えば済むことだ。連絡だなんて、一体、僕が誰に? 誰が僕に?

相反する自己の内面を、強く自覚する。一方の僕は、他者を拒絶する。またもう一方の僕は、他者を求める。普段は前者の方が強い。だがふと気を緩めると、後者が前者を押し退け、ともすれば叫び出したくなるような衝動に駆られる。その度に僕は、切り捨てられないのならば、いっそ入れ物ごと破壊してしまいたくなる。

ああ、今だってそうだ。ごく自然に、さも当然のごとく、メッセンジャーにサインインしている。連絡手段などと名目を立てている所で、その真実は他者を求める僕の意識の表れでしかない。重要な連絡などメールで事足りる。寝るときにさえオンラインである必要など、何処にもないではないか。

受け入れられると、頼ってしまう。許されると、甘えてしまう。僕は弱い。誰も居ない所へ行きたい、と常々言っているのは、何も自分の欲求を満たす為だけではない。僕は害悪でしかない。あるだけを食いつぶし、無為へと変質させてしまう毒虫だ。

ああ、どうか、りんごを。最後の甘えです、背中に深く食い込み、体を内から腐らせ、僕を死に至らしめるりんごを、誰か。