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2004-12:index

20041201

書いても、書いても、納得が行かない。満たされない。

とりとめもなく書いては、満足行かずに、消す。吐き出した何かは虚構の何処かに流れ、僕以外の誰の眼にも触れることなく、消える。寝不足の所為だろうか。色々な人に申し訳がないように思う。僕の時間の浪費につき合わせてしまったり、僕に対して投げかけられた言葉に、満足に応じることが出来なかったり。

心に穴が空いたような感じと言うのは、こう言うことを言うのだろうか。落ちる夢をよく見るようになったし、落ちる様な意識を、日々感じる。体が外皮一枚を残して、ぽっかりと空虚になってしまった様な感覚。以前僕は、文章を書くと言うことは、自分の体を「かんな」で少しずつ削り取られるようなものだ、と言ったことがあった。僕の言うべき言葉は、削りだすべき血肉は、もう尽きてしまったのだろうか。

そしてやはりこの文章も空虚であり、虚構に吐き出されただけだ。何の意味も持たない。無為、無駄、塵。

それでも書くしか能のない、と言うのは、やはり道化のそれであろうか。どうしようもない。しかし衝動は尽きない。何の手掛かり、足掛かりのないまま、ただ衝動の赴くままに身を任せる他ない。

なるほど、僕は今、落ちているようだ。底は、知れない。

20041204

閉鎖的、選民的な集団は嫌いだ。

最近頻繁に、「日記は(SNSサービス名)で書いてます」と言う文面を見かけることが多くなった。別に、誰が何処でどのように文章を書きアップロードしていようが、それはその人の勝手であり、そこで知能障害を起こして妬み混じりの批判をするような真似など出来よう筈もなく、当然この文章も「そういった」意図ではないことを先に書いておく。

SNSに至る流れは、以前からあった。多くのテキスト系テキストサイト(批評サイトと言う意味での)において、日記系サイトの本質は「馴れ合い」であり、それはつまり「書いている人」に対して興味があるからこそ、日記系は成り立っている、と言う風な論調が散見された。そしてその日記系サイトの対極には、輪からあぶれた者達による私怨交じりの「馴れ合いはウザい」などと言う、全く失笑するしかない主張も見受けられたが、ともかくそういう背景の下にBlogブームが到来、そうして外野や不特定多数からのノイズが省ける素敵なサービスがあるやと知れ渡ると、一斉に馴れ合い至上主義の方々はその殻に篭り、まるであてつけの様に「日記は〜」とサイト上で公表したりするものだから、より一層「馴れ合いウザ(以下略)」とのたまう原始生物の短絡神経を逆撫でし、挙句の果てにSNS乞食なんて歪んだものまで生み出してしまった。

息苦しくは、肩身が狭くは、ないのだろうか、と、時々疑問に思うことがある。実際に内部を覗いたことはないし、この先「登録しなければ見れない」と言うシステムが変わらない限り、覗く気もさらさらないので憶測になってしまうが、周り全員が全員「友達」もしくは「友達の友達」である。余計なノイズを排除出来る分、隣人との距離は肉迫し、足取りまで記録され、相手の機嫌を損ねれば「絶交」機能を行使される。安心な、だとか、健全な、と謳われるコミュニケーションがとれると言う触れ込みでのSNSである。果たして本当にそうであるのか疑問であるのだが、「SNSが楽しい」とのめり込む人も居るあたり、その辺りの調和は取れているのだろうか。

ともかくとして、僕は先に「登録する気はない」と書いたが、これが本題である。前置きが長い。

僕は文章を書くにあたって、何度か書いているように、「公開することに意義がある」と考えている。この様に、言語さえ理解出来れば誰にでも見れる形にして公開しているのは、つまるところ「見て(観て/視て)貰う」為だ。いくつもあるであろう、自分では気づけない欠点を指摘して頂くこともあれば、これはあまりないのだが、たまたま僕の書いた文章に意味を見出した人が、より多くの人の目に触れるようにと紹介してくれることもある。建前を言えば公益、本音を言えば自己の修練の為に、僕は書いている、と言っていい。

では何故「閉鎖的、選民的な集団は嫌い」なのか、と言うと、一般の人々が持つ「ひきこもり」へのイメージに近いのではないか、と思う。仲間内だけでの繋がり、密接故の表面上の付き合い、そして現実にはない「完全な絶交」機能。どうも僕はそこに、「都合の良い世界」を見てしまう。認めた人だけしか見ることが出来ない。認められても嫌われてはならない。もし「絶交」されたら、見えないそこで一体どう書かれていることか。何だか、馬鹿馬鹿しくなるのは僕だけであろうか。

と言っても、想像上の話でしかないことは、わざわざ書かなくとも先にしっかりと書いてあるのでご理解頂けるだろう。おそらくこの妄想の八割は僕の人間不信に由来するもので、あの認証と言う壁の向こう側は、そりゃあ愛と希望に満ち溢れた理想郷なのかもしれない。いや、そうだからこそ、SNSに人生を捧げかねない勢いの信奉者まで生まれるのだろうか。

しかし、だ。もし真実はそうだとしても、尚更僕は拒絶する。僕が望むのは他者じゃない。いや、結果的には何をしようと人間である限り他者を求めることにはなるであろうし、今こうして書いている文章を公開すると言うことは、他者を意識している表れでもある。だけれども、僕は意識的に他者を排除する。先日書いたように、僕は他者に対して有害であると強く、病的なほどに自覚しているし、それ以上に、妙な自意識を持っている。密接な関わりは持たず、目指すものは「先」であり「人」でない。

この様な観点から見て、他者に依存し、馴れ合い、箱庭に閉じこもる様な人々を、僕は気持ち悪いと感じる。いや、再三言うように、気持ちは分からない訳ではないし、極端な仮定を立てているものの、それが事実であろうと妄想であろうと帰結する結論は同じな訳で、つまりこの思いは変わらない。

深く根を張る人間不信、気違いと思われるほどに歪んだ思想を血肉に動く僕は思う。人を選んでまで、そんな所に閉じこもってまで、一体何を求めているのだろう、と。表層化しているか、それとも行間に潜んでいるか、はたまたディスプレイの向こう側で淀んでいるかの違いであって、結局のところ他者の評価なんてものは、如何様にでも変質し得る。仮初の笑顔で応対され、いつの間にか疎遠になって、ある日突然「そうだったのか」と気付くよりも、最初からあからさまになっている方が、気が楽ではないのだろうか。そうまでして「誰か」と繋がりを持ち続けたいのだろうか。

……やはり僕は、「気持ち悪い」と断ずる。

*

長々と書いてみるものの、読みたい文章があると言うのと、そこに居たいかと言うのは全く別次元の話であって。好きな文章を書く方がSNSに居たり、行ってしまったりすると、とても残念に思う。先の理由で登録する気はないのだけれど、しかし文章を読みたいというジレンマ。

だからと言って誰かに登録してもらうとなると、「友達」として何か書かねばならない義務感と言うのにも苛まれる訳で。僕はそんな状態で書きたくはないし、やはり先の理由で書くつもりもない。でも読めない。

仮登録と言うか、ウォッチャー制度と言うか、許可を貰えば日記なしに文章を読めるようにはならないのだろうか。ああ、それか「Web全体に公開」なんて設定さえあれば、何の気兼ねもなくSNSに参加出来るのに。いや、どちらにしろ、僕には合わない世界だとは思うのだけれど。

20041205

夕方前に起床。リビングに行くとスパイダーマンの二作目を家族が観ていたので、ついでに観る。普通のハリウッド映画だな、と言う感想。特に後に残るものはなし。

風呂に入り、ふと外に出たくなったのでそのまま着替えて外出。ぶらぶらと駅前まで出てきて、何も目的がなかったことに気付く。このまま行けるところまで行ってしまおうかと思いながらも、もしかしたら友人でも居るかな、と登戸近くのゲームセンターまで足を運ぶ。しかし、知り合いの姿はなかった。

適当にIIDXやらで時間を潰すも、どうも釈然とせず。やはり外に出ても時間の浪費の仕方は同じなのだろうか、と、以前にも考えた疑念を再び感じる。

飽きたので再び適当にさまよう。陽はいつの間にか完全に沈み、街はすっかり夜の顔に変わっていた。用水路まで出て行って時間を潰すのも良いか、とも考えたが、「マンドクセ回路」が働き始めたのでぼちぼち家に戻る事にする。近所の大学生の群れが、そこかしこで喚いているのが酷く鬱陶しい。大学に入ると言うことは、ああいう集団の仲間入りをすると言うことなのだろうか。馬鹿馬鹿しい。

どうして余り外出することが好きではないのか、最近なんとなく分かってきた。パニック障害だとかでありがちな「怖い」と言うわけではなく、ただ単純に差異が分からないのだ。家でボーっとしているのと、外に出てボーっとしているのと、一体何が違うのか。目障りな人種を目にしたり、動く分のエネルギーを消費しない分、家でじっとしているほうがずっとマシだ、と、思う辺り、既に狂っていると言うことだろうか。

そんな事を考えながら歩き、道中のコンビニで冬限定らしいカフェオレを買う。バニララテの方がずっと美味しい。変な期間限定品を出すよりも、バニララテを年中売り出して欲しいなあとひとりごちつつ家に入る。

閑散とした、間接照明一つの薄暗い部屋。恐らくここに何一つなくなったとしても、外に出たいと強く願うことはないだろうと思う。外だろうと中だろうと、結局は何も変わらない。

だって、何もないのだから。

20041208

やっぱりサイト弄りってのは楽しい。白紙を自由に使って遊んでいる感じ。ぎりぎりとマークアップに悩んだり、ぷすぷすとデザイン練って思考オーバーフロー起こしたりするのも、何だか面白い。

で、当面の問題は、良いデザイン案が出ない役立たず脳漿をいかにぶち撒けるか、と言うことなのですが。方針は相変わらず「簡素」に、かつ「趣深く」。省略し過ぎると味気ないし、かと言って虚飾は好きじゃない。はてさてどうしたものか。

そういえばマークアップスキルが若干向上したので過去ログも書き直したい。だけども案外量、多いのね。よくもまあこんだけ書いたものだと自分でも驚愕する。そして挫折。もうすぐ年も変わるし、過去の遺物はやっぱり恒久的破棄の方向で良いかもしれない。

*

Webデザインリスペクトリスト。いや、パラグラフでマークアップするけどね。

まず加納さん。モノトーンな配色なのに、どこか高級家具を思わせるエレガントさ漂う不思議デザイン。頭おかしいです。エレガントさと言えば神岡さん。はてなダイアリー(tDiary)テーマをいくつか手がけ、その他多くの(把握しているだけでも多すぎて書けない)サイトデザインを請け負っている日本のCSSパイオニア。余りに凄過ぎてどんな記述をしているのかさっぱり。頭おかしいです。そして楠見さんも素晴らしい。某ゲームのスキン、Firefoxのスキン共に愛用しているのですけれど、UIの処理の仕方が上手い人はデザインも上手いと言う好例です。魔人。また、画像の処理の仕方もサイトデザインには大切な訳で。高田さんの鮮やかかつキレたイメージは神経逆撫でボンバー。グッズ欲しい。

つまり何が書きたいかと言うと、誰か僕にセンス下さい。

20041210

某所と某所の鬼人の如き論じ合いを読んでいて思った事。

話術、論術と言うものは様々で、それらは大抵自論をより相手に伝わり易くするためか、相手をやり込めるために使われる。前者の用法、技法が建設的な議論をするにあたって望ましいのは言うまでもないが、どちらか一方が自尊心を立てるがために精神的向上心が欠如している様な場合、一方が例え建設的に議論を行おうとしたとしても、双方の意見は食い違い、場合によっては双方罵る煽るの混迷の様相を呈してしまう。

冒頭に挙げた例は、双方煽り合ってはいるものの、双方本質を見据える目、何より精神的向上心を失って居ないが為に、一見白熱し論駁し合っている様に見えはするが、その実、至極冷静に論じ合っている。むしろ、その煽りの一文一文が、傍観者である読み手にとっては冗長になり易い長談義に、丁度よい、スパイスの様な感覚をもたらし、何か舞台の台本でも読んでいるような、不思議な高揚感を与えてくれたりする。

話術、論術、言葉。それらは形式的、記号的な側面と、実質的、本質的な側面を併せ持っている。いくら形式ばった丁寧な文体であろうと、文節や文の流れによっては高圧的、威圧的にもなれば、腰の低い、柔和な印象を与える事も出来るし、先の例の様に、互いに「氏」付けで呼び合って熱く議論しているだけであっても、他所から見れば煽りあい罵りあいに見える事もある。

だからこその日本語は理解できますか?だったのだ、と言う含みを込めて幾度か書いたように思うのだが、全く伝わらなかった様だ。人づてに聞いてこの記事を読み、唖然としてしまった。僕と加納氏とのやり取り等を読んでこの結論に帰結したのであれば、最早何も言うことはない。

igoa氏が望むなら突込みを入れるが、正直な感想は「Script Kiddieから似非論客になっただけで本質は何も変わってないね」と言ったところで、後は先にも書いたが、閉口せざるを得ない。ただ一点、MSNメッセンジャーを用いて話し合おうと提案したそうだが、これは大いに評価出来る。出来れば現実で顔を付き合わせて話し合ったほうが良かったかも知れない。現実では、多少の不足は表情や語気で誤魔化せるだろうが、こと文章となると、そうは行かない。igoa氏、貴方には議論、いや、コミュニケーションするにあたって、最も重要なものが欠落している。

20041213

遅々として進まない改装作業。早くXHTML2.0とCSS3が勧告されればいいのに。

*

The day after tomorrowを観る。で、感想(以下ネタバレを多少含む)。

序盤をボーっとしつつ観ていた為かは分からないが、イギリスの学者(主人公の親に「一人でも多く助けてくれ」とか言ってた人)が結局どうなったのか分からないし、最終的に北半球が氷に覆われましたが人類は逞しく生き延びましたみたいな尻切れトンボ的ラストは、どうにも釈然としない。ぶつぶつと不自然に視点が飛ぶ上に、その間のエピソードが端折られているのも気になった(大統領がホワイトハウスを出て次のシーンには死んだ事になってたり)。

ただ、とあるシーンを回想すると、ストーリーだとかプロットなんてのは、もしかするとこの作品を観る上でどうでも良いのかもしれない。主人公の父が、息子を助け出そうと、何もかもあっという間に凍りつかせる嵐をかいくぐって、ニューヨークまでやって来る。ニューヨークは既に嵐が過ぎ去った後で、何もかもが凍りつき、数十メートルも降り積もった雪のお陰で自由の女神は上半身しか見えない。足元には凍りついたまま横たわる人々。清浄にも思える真っ白な世界を、立った二人の、場違いなほどに黄色い防寒具を来た人間が歩いて行く。カメラはズームアウトし、絶望の降り積もった世界を捉える。

無論、殆どがCGであろうし、今作が売りとするのもその辺りであったはずで、しかし壮大なCGを売りにしている映画は腐るほどあるし、そういう「大作」ものは大概観てきた。いくら技術が進もうとも、決定的な所で「嘘臭さ」と言うか、「偽物」感が拭えないのは、致し方ない。だが、この作品の、このシーンにおいて、僕は初めて快感とも言うべき感情を感じた。

例えばLoTRである。あれは元々の重厚なストーリー、根底に流れる泥臭い友情、絶望的な状況からの大逆転、そういう背景を含めた圧倒的なまでのCGと美術で、多くの人を魅了した。しかし、あのシーンには全くそういう種の感動とは別物の、恐ろしい美しさがある。

ただの破壊や、滅亡と言う言葉で括ってしまえば、もっと凄惨なシーンのある映画は幾らでもある。しかし、全てが凍てつき、何もかもを純白が埋め尽くした美しい終末の風景を描いた作品が、他にあっただろうか。「ああいう所で死にたい」と思わせる作品が、他にあるだろうか。

単に言ってしまえば、僕の個人的思想に因るものかもしれない。JAMの「LOVER SOUL」と言う曲のPVを観て、「いいなぁ」と思う種の人間である。そう言えば、随分前に「雪の降る闇夜に、横たわって降る雪を眺めながら死にたい」と理想の死に方について知人に話した事があったのだが、「闇夜じゃ雪見えねーじゃん」と一言で断じられた事があった。まあ、それはどうでもいい。

英雄的死に様、献身的死に様、無常感漂う犬死になど様々な死の描かれる映画であるが、ここまで象徴的に圧倒的死を感じられる映画を、僕は他に知らない。万人に降りかかる荘厳なる白い終わり。僕はそこに、何とも言いがたい恍惚を感ぜずにはいられない。

*

ついでにテレビをつけたらたまたまやっていた戦場のピアニストの感想。上記同様ネタバレ含む。

実在したピアニストであるシュピルマンとやらの話らしいが、前半のユダヤ人虐殺辺りはよくある戦争映画の踏襲。残虐さ、と言うか、非情な感じはLife is beautifulの方がもっと良く描けていた。

シュピルマン自身はピアノが弾けるってだけの矮小なただの凡夫。終始生き延びる事しか考えず、怯え、逃げ回る。終盤に出会うドイツ人将校にピアノを弾いて見せ、見逃してもらった上に食料やドイツ軍支給のコートを貰った(後でこれのお陰で誤射されて死ぬところだったが)割には、終戦後彼の事が耳に入らなかったのか、結局彼は戦犯として殺される。「生きるか死ぬかは神しだいだ」との将校の劇中の台詞かくや、と言ったところか。

ところで、これは本当に史実通りなのだろうか。まともに歩けない程に衰弱したシュピルマンが、将校の前で凄まじい様相でピアノを弾くシーン。映像通りに受け取るならば、彼は長い間ピアノに触ることも出来ていなかったし、満足にブリキ缶を開けられないほどに手先は痩せ細っていた。それでもあれほどの(脚色はあるだろうか、あの曲を弾いた事は恐らく確かだろう)名演を、さっとやって見せた。あんなべらぼうな指使いを、衰弱死寸前の、ましてや長いブランクを経た上で弾いたと言うのならば、確かにシュピルマンは歴史に名を残すピアノの名手であったのだろう。疑念は残るが。

誰しも究極的には保身第一、生き延びて好きな事が出来れば後は何だっていいんだ、と言うことが表現したかったのなら、この映画は正に名作だ。すがる様に生に執着し、多くの人の善意と死によって繋がれた生でもって、ラジオに流されるピアノを弾くシュピルマン。彼には恐らく、「パンの包みに缶きりを入れる」心は、理解出来なかっただろう。繋いで貰った生でもって、精一杯ピアノを弾く事で償いとしたのであれば話は別であるが、あの映画の終わり方では、到底そうも受け取れそうにない。

悪しきは監督か事実か。そんなこともどうでも良くなるほどに、作中のピアノは素晴らしかったので、これを読んでいる皆々様方は、DVDでもって将校の前でピアノを弾くシーンだけを観られれば良いと思います。

後で気になって調べてみたら、シュピルマンはちゃんと将校を探したらしい。テロップでもいいから入れておけよ監督。先の「事実」を読んでいくらか修正したい部分はあるけれど、それを映画で描かなかったのは監督の意図でもあるだろうし、脚色や切り捨てた部分も映画の内、つまり面倒くさいので放置。

20041215

過去の事、現在起こっている事、これから起こるであろう事。

検索サイトと言うのは恐ろしいもので、ふとした切欠でとある検索語句でもって検索をかけたところ、過去の僕がネット上のイベントに投稿した文章が出てきた。「おお、懐かしい」と思い、いざクリック、と、当初の目的を忘れて飛んで見れば、目に入るは数々の批評文。〇点の嵐。

今読めば、確かに酷い。よくよく読んで見れば、ああそうだ、これは二十分で書いたものだった、と、とんでもない事まで思い出した。過去の自分に言い諭したい、と言う人は多いが、それは実にその通りで、僕もたった今そういう気分を初めて感じている。そういう所にしゃしゃり出るくらいならば、もっと時間をかけ、全身全霊でもって事にあたれ、と。

書ける人は、確かに二十分やそこらで、普通の人が腰を抜かすようなものが書けるのだろう。しかしそれにはそれ相応の努力だとか才能と言ったものが必要なわけで、精々Webにぽつぽつと短い創作話を書いているだけの、齢二十にも満たない凡夫に、そんな芸当なぞ出来るはずもない。もっと鍛錬と、経験が必要だ。今も、昔も。

書く事はとりあえず何とかなる。気に入らないかその他の理由でここに載せてはいないだけで、一日に一時間はあれこれと書いてはいるからだ。では読む事は、と言えば、面倒くさがりの性分を重々自覚しているので、図書館で借りたりすればまず間違いなく返却催促を頂戴する事になる。そんな訳で家には数冊、どれも本屋で適当に帯を見て選んだ本が散在していたりするが、やはり扶養されているだけの働きもしない木偶ごときには、時折貰う昼食代を削って安文庫を買う以外の手段は無い訳で。

そういう意味では、インターネット中毒者にとって、青空文庫だとか、googleが予定している図書館の蔵書アーカイブ化(文字通りの「書庫」となるわけだ)などが非常に有難く、嬉しい訳で。はてなダイアリーでも書いたのだけれど、本、つまり世に出ている文章は、こういう風に皆に分け与えられ、共有され、活用されようとしているのに、どうして音楽や写真と言った、聴覚や視覚に訴える表現媒体となると、ああも肩身が狭いのだろう。等しく価値のあるものであるはずなのに。

The day after tomorrowの話になるが、雪と氷に閉ざされた図書館の中での事。暖をとろうと、皆が本を燃やしていると、登場人物の一人が古めかしい本を抱えて「私は、人類最大の発明は活版技術だと思っている。この本は、世界で始めて活版印刷された本だ。だから、この本だけは守らねばならない」と言うようなことを言っていた。作中では冗談めかして語られてはいるが、しかしこれはなかなかに真理ではないだろうか。人類最大の発明は貨幣でも、権利でもない。日々消費され、流れ、消え行く言葉と言う知の発露を記録し、保存し、複製する技術。それこそが人類最大の発明であり、人類をここまで導いてきたもの。おや、そういえばこれは何かに似ている、と思われた方は賢い。そう、この技術の発明に至った根幹は、現在「インターネット」と言う形で受け継がれている。物質、つまり紙という媒体が必要だった印刷技術が、今やこの小さな箱、至っては携帯端末で、同じ効果を持つことが出来る。

もう一世紀、いや、半世紀も遅く生まれていれば、その恩恵を最大限に享受出来たかもしれない。しかし、今僕は歴史の過渡期とも言うべき時代に居る。この先「人類最大の発明は、インターネットだ」と言われるようになるだろう。何故って、今の僕があるのは、顔も実際の名前も知らない誰かさん達のお陰だからだ。彼、彼女らの言葉や思想の一片が、当時思春期とも言われる年頃だった僕にとっては新鮮で、とても興味深いものだった。地域だとか、小さな単位社会なんてものだけに影響されて育つ様な事は、将来的になくなる様に思う。必要なことは、義務教育が詰め込んでくれる。気晴らしや快楽は、友人達と共有出来る。善い親を持てば、こんな風に歪んで育つこともないだろう。そして、モニタの向こうには、素晴らしい人達がいる。それが例え、一般的に「悪質」と呼ばれる人であっても、だ。

僕の書いたものに対する批評、僕が今まで書き溜めたもの、僕が今まで考えてきたことの軌跡。今では赤面するしかないそれらは、今僕が赤面する程度には進んでいることを知らせてくれる。これから先僕がどうなって、そしてどうするのかは分からないし、あまり考えようとも思わない。ただ、ふとこうして振り返ったときに、目を覆いたくなるような、布団に頭まで入り込んで呻きたくなるような、そういうものばかりであって欲しいように思う。

昨日は、星が降ったらしい。僕はそれを知りつつ、見たいなと思いながらも、布団に潜り込んだ。流れ星が流れ切る前に願い事を言うと、その願いが叶うらしい。つまり、流れ星は、同じ空を見ている人の膨大な願いだ。そんなものを見て、感傷に浸るようなことはやめようと思う。

暗い部屋、丸まって眠る僕の遥か上を、人々の願いが流れて消える。手が届きそうな近くて遠い場所にあり、必死に見つめてはみるものの、あっという間に消え失せる。願いと言うのは、そういうものでなければならない。願いは所詮願いでしかない。叶えようとするのは意思だ。「強い意志が持てるよう、星に願いを」などと考えて一人嗤い、眠る。

20041218

本当に鬱陶しい。眼に入るもの、耳に飛び込んでくる音全てが僕に敵意を剥き出し、そして僕の口から出るもの全ても、同様に僕のありとあらゆる感情や思考を無視して、まるで僕に似た別の誰かが悪意たっぷりに宣言するように感ぜられる。

ただの被害妄想ならもっと楽であっただろう。相手に非があると思い込める分、自分はただそれを拒絶するだけで済む。しかし僕を取り巻くそれらは別段僕に害意がある訳でもなければ、むしろ殆どが僕になんら関係のない、僕に向けられてすらいないものであって、そして僕はそれを知った上で、不可避に侵食するそれらに鬱々とせざるを得ない。そんな状況であるから、当然紡ぐ言葉もその影響下にある訳で、それが私的なやり取りであればあるほど僕は混迷し、硬直し、結局反応出来ないままか、内容のない返答をするしかない。メール数通が未返信のまま放置され、IMで話しかけられれば通常よりも多大な時間をかけた応答が僕の心を苛む。IMソフトを落とし、携帯の電源を切ってみるものの、しかし放置している事実は変わらず、誰か――非常に利己的な判断だと今の僕は思う――が連絡を求めているかもしれないと言う予感が頭の片隅にこびり付いている。

全てが間違いであっただろうか。今連絡を取り合うような人は、恐らくおおよそ僕がどんな人間であるか知っているだろうし、僕もそういう人間である事を、ここや個人的なやり取りの中で再三述べてきた。しかしそれでも。完全な理解と言うのはあり得ないし、僕の内にある毒は、日増しに強く、致命的になっているように思う。今だって必死の思いで言葉として吐き出しているのだ。ともすれば、あの線路に残った染みの仲間入りを果たしてしまうかもしれない衝動に駆られるが、すんでのところで踏みとどまっている。その踏みとどまる理由も、普通の人からすれば些細な、ありきたりのものでしかないだろうが、しかし今の僕にすればそれが全てであり、それによって繋がれているに過ぎない。

――休みが続く。カーテンで遮られた外界と部屋との境目、その外がどうであるのか、今は昼なのか、それとも夜であろうか、そんなことすらも然して重要なことではなくなった。ただ僕は横になり、眼を閉じたり開いたりするものの、そこに視えるのは濃淡のある闇ばかりで、時折鼓膜を劈く様に響く幼い泣き叫び声に、意識の水面は激しく波打つ。

誰か、と呟いている。誰に向けての言葉であろうか。後生だから、と続く。一体どんな望みがあると言うのだ。意識して口を噤む。そして願いを一つ思い出した。

全て、何もかも、一切、黙れ。

20041220

焦燥と行動は違う。

どこかに行きたいと思うことがある。ここ最近、頻繁に。別段目的地などなく、ただ歩き、さまよい、僕の知らないところへ、誰も僕を知らないところへ、気は急ぎ、僕は思う。

テレビを見ながら食事をするな、と親に叱られた人は、居るだろうか。今ならそう言った親の気持ちが分かる。意識の繋がりや流れと言うのは帯域に似て、どこかに幾ばくか割かれれば、その分だけどこかが削られる。家族の食卓、団欒、そういうものを、意識の帯域いっぱいに受け止めて欲しくて、親はきっと、そう言った。今なら、その気持ちが良く、分かる。

帯域を削る。徹底的に。全てを落とす、閉じる、塞ぐ。すると、それでも朧げではあるが、閉じこもった殻の内側の自分が見える。瞬間、叫び出し、暴れたくなるような衝動が襲って来るが、必死に堪えて眼を凝らす。衝動は焦燥に繋がり、もう一秒だって眼を開けられていられなくなる。どこか遠くへ、自分すら置いて、遠くへ、と、望む。

望みだとか願いなんて、分かりきっていることだが、それだけでは何もならない。いくら僕が何処かへ行きたいと思ったって、思うだけで叶うならば、この両の足は必要なくなる。足を動かさねばならない。何処へ行くにしたって、だ。だけれど、足すら満足に随意しない。手ばかりはこうして動く。書いていないと、本当に気が狂ってしまいそうになるからだろうか。

人は時々、弱くなる。そういう時に、誰かに触れていたくて、誰かの熱を感じたくて、しるしを見せる。それは素直な態度かもしれないし、自傷かもしれないし、人に働きかける迷惑なのかもしれないし、僕のような気持ちを裏返す天邪鬼なのかもしれない。形なんてのは幾らでもある。問題なのは僕はそれを自覚しているにも拘らず、どうすることも出来ないことだ。

こういう態度と言うのは、分かる人にはすぐに分かる。そういう行動には、必ずどこかに利己的な不条理が付きまとうからだ。「鈍い」と自覚している僕にだって、それと分かることがある。そういう時には内心酷く鬱陶しがるというのに、その自分がこの様と言うのも滑稽で、馬鹿らしくて、実にどうしようもない。

そしてまた、どこかに行きたいと思う。こんな弱さも、煩わしさも、誰も知りさえしなければ、無いのと同じだ。そんな風に徒然と思ってはみるものの、ああ、本当に、馬鹿だ。

何処へ行ったところでどうせ同じ繰り返しで、結局何処にも行けやしないってことくらい、分かっているのに。

20050124

ほぼ一月、いや、回線が通ってからは数日経っているから実際は一月にも満たない期間ではあるが、物理的にネットワークから切断されていた。そのためにこんなにも日付が飛んでいる訳なのだけれど、思ってみれば飛んでいる日付の間のことは「実際に」飛んでいたりして、書かなければ忘れ、書けば脚色され、見せれば曲解され、見せなければ腐ってしまう言葉と言うものは、本当に厄介だ。

この世界に触れ始めてから先の件に至るまで、一週間と離れたことがなかった。それほどまでに中毒であるか、生活の一部であるか、それとも僕の存在意義の一部になってしまっているかは、自分でも定かではないが、ともかくこれは前例のないことで、同時に予想だにしなかったことでもあり、そして当然、望む筈もないことであった。なくしてみると、驚くほどに自分の生活が「ここ」中心だったことを思い知る。ともかく、やる事がないのだ。今まではPCの前に座り、巡回し、発見し、書き、話してきた訳であるが、それら全てが一気に取り払われてしまった。残されたのは、それをやるはずだった膨大な時間。

あまりに手持ち無沙汰だったので、やらなくなって数年来になるコンシューマゲーム機とゲームソフトを買ってやってみた。以前の気持ちが少し胸の間隙をすり抜けた気もするが、やはりどこか虚しく、作業的にほぼクリアしてやめてしまった。次に、本を買った。普段はこちらで文章を嫌と言うほど読んでいたのだから、当然の帰結と言えばそうであるが、その本を選ぶ過程で色々と気付いた事があった。

まず、自分が小説だとか文学と言うものに、大きな先入観を持っていたことだった。本イコール文学小説であり、そしてそれは大時代的な表現や言葉遣いで書かれ、そして須く人の核心を突く作品でなければならない、と勝手に思い込んでいた。しかし実際、新書の棚へ行ってみると、賑々しく飾り立てられたカバー収まって、その辺ででも読めそうな文章記号の羅列のあるだけの紙切れが山のように並び、色々な人が小難しそうな顔をして、真剣にどの本を買おうかと吟味している。何だか笑えてきてしまった。

誰が言ったか忘れたが、人の一生では、どんなに頑張っても精々三万冊の本を読むのが精一杯だそうだ。多いと見るか少ないと見るかは別にして、ともかく三万である。ひとりひとりの三万、その中に、いかにして潜り込めるかが、物書きとしての力量であり、生き方となる。さて、本屋であるが、本屋と言っても大きい本屋から小さい本屋まであるが、おおよそにして一店舗あたりに、タイトル数だけでみても、数千、大きいところならば数万はあるだろう。そのさらに一部分である新書棚においてすら、あのような混沌とした有様だ。見掛け倒しの、カバーや帯にばかり力の入った本、質素な外見な癖して、中はガチガチに詰まった「らしい」本、外も中もそこそこだったり、良く分からなかったりする、何で置かれているのか不思議な本、多種多様な本が並べられ、積み重ねられ、整理されて、置かれている。

ふと、疑問に思ってしまうのだ。ここに置かれた人たちは、何を思ってこれを書いたのかと。まさか、偶然となりに置かれた本とただ吟味され合う為だけに書いた訳ではあるまい。書くだけの理由があるはずだし、そして書くからには当然この新書棚、いや、本屋と言う空間には慣れ親しんでいる人が多いはずだ。ならば、何故であろう。あんなところを見てしまったら、伝える意味、書く意味への疑念が次から次へと沸いて出て、その事に自負や自信があればあるほど、叩きのめされてしまうのに違いない。それでも書いたからこそ意味があるのだろうか。しかし結局は、その混沌の中の一冊として並べられ、埋もれてしまうだけである。

自分の知らないところに、自分の知らなかった良いものがあるかもしれない。そう思う人は多いはずだし、それを実際に体験した人はもっと居るだろう。単にエンターテイメントや芸術、娯楽の類は、そういった側面を持っている。しかしこれは、ともすれば危険にもなり得るのだ。もっと、さらに、ずっと、と、期待するものが掘り出されれば掘り出されるほど、人は「次は?」と思うように出来ている。これは際限のないマラソンであり、アンカーの居ないリレーであり、皆が頂を目指す山でもあり、そして戻る事の出来ない一本道だ。障害は数え切れないほどにあるはずなのに、熱中と言う病にかかった人の目に、感覚に、それはうつらない。そしてある時息を切らして走る自分を発見して、ふと後ろを振り返ったときに思い知るのだ。

「何やってたんだろう」、これが僕の一月。そしてこれが続くのが、僕の一生。