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2005-04:index

20050419

孤独と言うものは、人をこうも堕落させ、狂わせる。

強制的に人と関わりを持たされる習慣から開放された僕に訪れたものは、安息でも安堵でもなく、ただ蛇口を開け放って流れる水の如く無為に、そして致命的に過ぎ行く時間と、巨大な砂時計の底に埋まった様な、重苦しく、ざらざらと乾いた狂気のみだった。

今日は久方ぶりに気分が上向きになったので、いつの間にやらバージョンアップして意味不明な機能ばかりが追加されたメッセンジャーにログインし、会った事のない友人と戯れた。人との関わりと言うものは、今までの僕が思っていた以上に、重要なものだったらしい。その最中にはただ鬱陶しかったり、面倒立ったりするものだが、無くなってしまえばそれはそれで人格に多大なる影響を与えるようだ。

外で人と会えば自動的に躁になり、後に一人自室で反動に苦しみ鬱屈する生活。最早家族との会話すら億劫で、感情が表層に表れる閾値に至るまで高揚することもない。何ともまあ、ざまあないと言った所だ。一足先に今の僕の様な境遇になった人間に、多少の哀れみと、友人らしい心配をかけていた人間が、今では同じ、いや、もっと性質の悪い生活である。ニートだフリーターだと世間は言うが、どうやら僕は「そんなもの」にすら、なれないらしい。

うち捨てられ、薄汚れた児童用の車を見て、ノスタルジアと言うか、センチメンタルな感傷……いや、そんな懐古主義的であったり、美化されたものでもなく、何と言おうか……そう、あれに乗って無垢で無邪気に遊んでいたであろう人間も、いつかは「こうなってしまう」と言う現実を見た際の諦観、そういうものを感じる。あの頃に戻りたいだとか、過去と現在を対比してみるといった事じゃあない。「あれ」は僕が恐らく辿ってきた道程の一つで、やがては「こう」なると言う暗示。誰もが僕のように落ちぶれる訳じゃない?何を、馬鹿な。対象をこき下ろして相対的に自分の価値を高めようなんてちゃちな心理は持ち合わせちゃいない。大なり小なり違いはあれど、誰だって巨視的に見れば等しく愚かで、どうしようもない。

試しに「もう少しマシな将来」ってもんを想像してみればいい。良い家に住んで、安定した収入があり、充実した趣味を持って、愛すべき人がそばに居る、そういうお題目的な「幸せな人生」ってやつを。ちょっと考えれば分かる事で、そんな一見幸せそうな生活であっても、いや、一見欠点がなさそうであればあるほど、問題は山積み、結局は「もっとマシな」空想をしてしまうほどに、慣れだとか欲ってもんが、人間の本質としてある。

テレビを見れば反日だの非行だの、ウンザリして外を歩けば棒に当たり、疲弊して家でPCの電源を入れれば名前と一緒に脳みそまで置いてきた馬鹿共の集まり。眼を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んだ人間に、誰だってなりたくなるってもんだ。

外はうっすら白んで、カラスと鳩の耳障りな鳴き声に、何処かの家からは目覚まし時計のけたたましい金属音が鳴り響く。また新しく素晴らしい一日の始まり。中断された素敵な日記も再開。朝ってのは、何しろ切欠としては特別な力がある。

おお、この太陽の昇り行くことこそ、我が恐怖なり――何の歌劇だったろうか?何も恐れる事なんかない。あのべらぼうに明るくて、鬱陶しい光源が顔を見せると同時に、こっちが眼を閉じ闇に潜んでしまえば良い。

おはよう諸君、新しく素晴らしい朝だ!私は眠る。