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digital-sapiens

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「お爺ちゃん、元気?」

つけっ放しにしていたディスプレイに、孫の可愛い顔が大きく映る。

「ああ、元気にやってるよ。悠太は元気かい?」

悠太は少しはにかみながら、こめかみの辺りを人差し指でかく。悠太のするそのしぐさは「僕もさ」と言う意味だと言うことを、私は知っている。私はにこにこと緩んだ顔で頷いた。

「そっちはどう、寂しくない?」

悠太はいつも、残された私のことを心配してくれる。この家を出て行ってからというもの、息子夫婦はめっきり顔を見せなくなったのだが、悠太だけは私のことを気遣っていてくれるのだ。

「お前がいつも構ってくれるからね。お爺ちゃんは平気だよ」

ディスプレイの上端に埋め込まれた小型カメラに向かって、精一杯の笑顔を悠太へ向ける。悠太も愛らしい満面の笑顔を私にくれる。

「あのさ、お爺ちゃん、二、三日前のことなんだけどさ――」

悠太はいつも、早口に、何度もつっかえながら日常であったことを話してくれる。本当に嬉しそうに、心から楽しそうに話されるそれに、私は意味もほとんど理解していないのに、ただ孫のその姿を見るのが嬉しいと言う風に、「うん、うん」と相槌を打つ。

「――それでね、そいつったら酷いんだ――」

私はにこにこと悠太の話に頷きながら、心のどこか、頭の片隅で生まれた小さな「ささくれ」の様な疑問について、考えをめぐらせていた。

悠太はいい子である。好奇心旺盛で、快活で、少しおっちょこちょいなところに目をつむれば、優しい心を持った天使の様な子だ。ただ、この子は「人の体を持っていない」。いや、正確に言うと「失ってしまった」のだ。

数年前のことだった。長年に渡って議論を巻き起こしていた、「ヒト情報電子化技術法案」が国会で可決され、誰でも健康な脳さえ持っていれば、人格、記憶、言語、感情に至るまで、ヒトがヒト足りえるおおよその「情報」を電子化……つまり、自分の脳みそをまるまるコンピューターにコピー出来るようになったのだ。そんな夢の技術に皆が心を躍らせていた時、それは起こった。

その法案が可決された次の日。突然私の家へやってきた息子夫婦は、「悠太を電子化する」と言い始めたのだ。

唖然として何も言えない私に、息子夫婦は淡々と、悠太が現代の科学ですら根治出来ない病にかかっている事、まだ病が脳にまで進行していないので、今なら電子化することによって生き永らえることが出来る事、自分たちもよく考えた末での決定だと言うことを話した。

私は、他に手はないのか、可愛い息子である悠太にそんな事をさせるのか、と詰め寄ったが、結局悠太自身の「お爺ちゃん、僕……死にたくないよ」と言う辛辣な言葉に、閉口せざるを得なかった。

デジタル化された情報は、それ自体は決して劣化はしない。保存しているハード自体が損傷すれば話は別だが、「彼ら」は常に自分のバックアップをインターネット上に残している。網などと言う比喩ですら足りないほどの、広大な有限の無限がそこにあり続ける限り、事実上の「不老不死」だと言える。しかし、電子化され、情報化されてしまうと言うことは、もしかすると――。

「――お爺ちゃん、聞いてる?」

悠太の言葉に、現実に引き戻される。

「あ、ああ、すまないね。インターネットが何だって?」

「もう、違うよ、お爺ちゃん。今はインターネットなんて言わないで、ワイヤードって言うんだ、って、前に教えたじゃないか」

悠太は「以前とまるで変わらない」少し朱の差した雪の様な頬を膨らませて、いかにも「怒こったぞ」と言いたげな顔をする。

「もう、ちゃんと聞いててよ。それでね――」

私は、私の疑問が確信に変わるのを感じた。悠太は……いや、悠太の情報は、成長していない。

悠太は今年十八歳になる。こちらの世界なら高校三年生の頃合だが、しかし悠太の外見は、「処置」を受けた時から全く変わっていない。それどころか、既に「お年頃」とも言える時期であるにも関わらず、悠太の口から発せられる言葉は、相変わらず少年のそれだ。

考えてみれば、法案が可決に至るまでの被験者は皆成人していた。人間、ある程度の年齢に達すると、目に見えて分かる変化と言うものが無くなってしまう。つまり、「変わっていようがいまいが」分からないことになる。

もし、情報化されたことによる影響で、老いも死にもしない代わりに――。

「――お爺ちゃん、どうしたの?具合でも悪いの?」

私のいつの間にか険しくなってしまった表情を読み取ったのか、悠太が心配そうな表情を見せる。私は慌てて笑顔を作ると、

「ああ、ごめんよ。お爺ちゃん、ちょっと今日は疲れてしまったみたいだ」
と、から元気で答えた。

悠太は少し心配の薄れた、しかし決して心からでない笑顔で、

「そっか、ちょっと長く話しすぎちゃったね。お爺ちゃんは体があるんだから、大事にしなきゃ駄目だよ?」
と、言われた側にしてみれば「身につまされる」ような優しい言葉を投げかけてくる。

「そうだね、お爺ちゃんはちょっと休むよ」

やっとの思いでそれだけ言うと、悠太は「わかった、また話そうね!」とディスプレイから姿を消した。

コンピューターの電源を落とし、ブリキ缶に入った両切り煙草をくわえて火をつける。

例え脳の情報を電子化したとしても、その本体、生身の体から、魂が抜け出てしまうと言う訳ではない。残された体は、常人と同じように存在し続けなければならない。

段々とかすれる声。何かを探すように震える指。枯れた老木の様に、老いた私よりも細くなった腕。やがて規則的に鳴っていた命のリズムの間隔が長くなり――そして。

「お爺ちゃん……僕……死にたくない……死にたくないよ……」

「こっち」の悠太が病院のベッドで最後に言った言葉が忘れられない。果たして息子夫婦の決断は、私の妥協は、正しかったのだろうか。悠太は、世界こそ違えど今も「存在」している。しかし、「あの」悠太は、生きていると言えるのだろうか。

一つ言えることは、悠太はもう、死ぬことはない。そう、悠太は生き続けるのだ。私が死に、息子夫婦が死んだ後も、気の遠くなるほど広い世界に、ずっと一人で。果たして、成長することのないあの子に、そんな苦しみが耐えられるのだろうか。

日付が替わったことを時計が告げる。みしり、と家のどこかが軋む音が聞こえた。

「お爺ちゃんは体があるんだから、大事にしなきゃ駄目だよ?」

また悠太の言葉が脳裏を過ぎる。もうあの小さく柔らかい手を引いて歩いた記憶も、まだ赤子だった悠太を抱いて泣かせてしまった記憶も曖昧になってきたと言うのに、あの子の言葉だけは、決して頭から離れようとはしない。

私はまだ半分ものんでいない煙草を灰皿で揉み消し、ブリキ缶ごと残りの煙草をごみ箱へ放り投げると、痛む節々を引きずりながら床に就いた。