私は呆れた風に参考書を閉じる。
今私は大学に提出するための論文を書いている。ところが、期日が近いと言うのに研究は遅々として進まず、未だに半分も出来ていない有様だ。
それもこれも、全ては彼女の所為なのである。
彼女は私の居候している寝床兼研究室に来ては、身の回りの世話をしてくれている。それだけなら良いのだが、彼女はとても話好きで、この部屋に来る度に何時間でも私に話し掛けてくるのである。
話の内容は専ら近所の誰が何をした、だの、巷ではどんな事が起こっているだのという至ってどうでも良い内容で、正直な所、研究の邪魔以外の何物でも無いのではあるが、ずぼらな私に代わって部屋の掃除や食事の用意等を嫌な顔一つせずやってくれている彼女に対して
「研究の邪魔だから出て行ってくれないか」
などと邪険な言い方はとても出来そうにない。そこでついこの前、なるべく遠まわしに
「そろそろ論文の期日が迫っているから、一人で集中したいんだけれど」
と言ってみた事があったのだが、彼女は
「あら、それなら私のことはどうぞお気になさらずに。それに、お節介かもしれませんけれど、世間に疎くては良い論文なんて書けないと思いますわよ」
と言った風で、まるで取り付く島もない。私はただ、白紙の原稿を前に頭を抱える他無いのであった。
そんなある日である。突然彼女が来なくなったのだ。大方私に愛想を尽かしたか、遂に私の言葉の真意を推し量ってくれたのだろうと思い、これは好機とばかりに研究に没頭した。
私は今までの遅れを取り戻そうと躍起になって筆を進め、幾度もの睡魔との戦いに打ち勝ち、明くる朝には論文はほぼ提出できる程度にまで仕上げることが出来たのだった。
これだけ書き上げれば、期日までには何かの手違いでも無い限り間に合うであろう。少し心に余裕の生まれた私は、彼女がやってきたら礼の一つでも言ってやろうと部屋で何をするでもなく待つことにした。
ところが、定刻になっても彼女はやってこない。普段なら、既にこの時間には部屋の掃除を終え、机に向かっている私に余田話を始めている時刻である。
…もしや、私の予想が的中してしまったのだろうか?
いよいよ痺れを切らした私は、久しく外に出ていなかったのもあり、散歩がてら彼女の家まで行ってみることにした。
*
道中、すれ違う近所の住人に作り笑いと会釈を配りながら、頭の中は妙に混乱していた。何故こんなにも焦燥感がこみ上げてくるのだろう?
懐手をしつつ心の内ではやきもきしながら、それでいて道行く人には気づかれぬ様、と複雑な歩みで彼女の家に向かう。なるべく表には出さぬようにはしているものの、恐らく周りから見れば酷く滑稽な姿であっただろう。
果たして彼女の家の前まではたどり着いたものの、どうして戸を叩けば良いかと門前を右往左往するばかりでなかなか踏ん切りがつかない。しかしこのままではあからさまに不審者であるし、あまり長居しては本当に警察でも呼ばれかねない。
果てさてどうしようかと思案していると、不意に眼前の戸が開き、彼女の母が顔を覗かせた。
「あら、いつもうちの娘がお世話になっております」
一瞬驚いた様子を見せるも、よく知った顔だと思ったのか丁寧にお辞儀までして挨拶をしてくれる。
「あ、どうも。ええと、そのですね」
迷っている最中に突然顔を出されたものだから、なんらやましい事など無いのにも関わらず挙動不審になってしまう。
「あの、立ち話も何ですから、どうぞ中へ入って行かれませんか?娘も喜びますし」
「あ、ええ、それではお言葉に甘えて」
妙な形ではあるが、何とか彼女には会えそうである。
*
「実は、娘はおとつい辺りから流行の病にかかっておりまして…」
彼女の母は申し訳なさそうに話す。彼女が心配なのもあって、こちらまで申し訳なさそうになってしまう。
「そりゃあ大変だ。今お会いするのは無理そうでしょうか?」
「いえ、一晩休んで大分良くなったみたいですから。うつされないようにお気をつけてくださいね」
そう言われて通された部屋の中心に彼女は横になっていた。いつもは程よく紅の差している唇が、心なしか青く見える。頬も少しこけているようだ。
目で挨拶をし、彼女の母が戸を閉めるのを見届けると、私は彼女の枕元に座って囁く様に話し掛ける。
「具合は良くなったのかい」
すると彼女は気だるそうに瞼を開き、私の顔を確認すると目を丸くして言った。
「あら…わざわざお見舞いに来て下さったの?」
「ああ、研究の方が一段落してね。そのことと、一言お礼を言いたくて」
「そんな…わざわざ来てくださらなくても良かったのに」
そう言って彼女は僕の座っている反対側の窓へ視線を向ける。
「私が来ては迷惑なのかい?」
「いえ…」
彼女は再びこちらに顔を向けると、伏目がちに、弱弱しい声で言う。
「まさか…来てくれるとは思わなくて…」
またあの焦燥感が胸を焦がし始めた。暫しの間、沈黙が漂う。
「と、ともかく。研究も殆ど終わった事だし、今までお世話になった恩返しをしたいんだ」
重苦しい沈黙を打ち破り、なんとかこれだけの言葉を繋げた。それに、彼女は困惑顔で応える。
「恩返し?私の好きでやっていた事ですもの、結構ですわ」
「それじゃあ、私の気がおさまらない」
「……」
「なら、こうしよう。私の好きで恩を返す。これなら、文句は無いだろう?」
私と彼女の視線が通い合う。やがて彼女は目を瞑り、小さい溜息をついたあと言った。
「…貴方は本当に意地悪だわ」
やっと重苦しい空気は晴れ、二人揃って微笑む。
どうやら、こちらの研究は一筋縄ではいきそうになさそうである。
苔の生した岩の上で座禅を組む。
眼下には、よく釣りをした小川がさらさらと流れている。
辺りは鬱蒼と茂った森に囲まれ、時折鳥らしき「きぃ、きぃ」と言う不思議な鳴き声を上げる。
さぁ、と緩やかな風が頬を撫ぜる。
私は静かな音の中、ゆっくりと瞼を下ろす。
*
子供の頃から、この川原へ良く遊びに来たものだった。
友達と連れ立って、よく釣りをしたり、かくれんぼをしたりしたものだが、体や心が成長するにつれてこの場所はまた別の意味を持つようになった。
私は元来落ち込みやすい性格と言うか、人の顔色を伺うきらいがあったように思う。それ故に、些細な事で気に病んだりしてしまう事が絶えなかった。
あの人と出会った時も、確か友達とろくでもないことで喧嘩をして落ち込んでいたのだった。
私が一人で、背中に陽の光を感じながらその川原で座っていたときだ。目の前がすうっと暗くなり、驚いて振り向くと、そこにあの人が立っていた。
始めは逆光の所為でよく見えなかったが、立ち上がって目を凝らすと、かなり年配の老人であることが分かった。腰は曲がり、顔には深く皺が刻まれていたが、しかし眼光は突き刺すように鋭かった。
「こんな所で、一人で何をしてるんだい」
老人は辺りを見回しながら尋ねてきた。
「別に、何も。居ちゃあいけないですか?」
「いやいや、そういう訳じゃあない。ただ、ちょっと寂しそうに見えたもんでな。爺にも、坊主と同い年ぐらいの孫が居るものだから、つい気になってね」
老人は皺だらけの顔をさらに皺だらけにして笑う。
「それで…何か悩み事でもあるのかい。話してみたらいい。気が、楽になる」
「…どうして分かったの?」
私がそう聞くと、老人は咳き込むようにして笑った。
「はっはっは、人間歳をとると、大方の事には見当がつくようになるもんさ」
そう言って、老人は禿げ上がった頭を撫でた。
*
老人に導かれるままに、川原にある岩でも一際大きく、丸い岩に登った。老人の身のこなしは、驚くほど軽い。
やっとの事で登りきり、一息ついてから、老人に促されるままに色々な事を話した。学校の事。友人の事。喧嘩をしたこと。何となくここにきた事。
その話一つ一つに老人は頷き、相槌を打つ。そして私が全て話し終わった後、ゆっくりとした調子で話し始めた。
「目を瞑ってごらん。何が聞こえる?」
「…川の音」
「川の音だけかな?」
「鳥の声も。草や木も揺れてる」
「ふむ。呼吸は、聞こえないかな?」
「呼吸?」
「そう、呼吸だよ。木も、魚も、草も、岩も呼吸をしている。まだ坊主にゃ聞こえないかもしれんが、爺には聞こえる」
「ふうん…」
話の意味は分からなかったが、岩の上で目を瞑って座ると、不思議と落ち着いて物事を考えられることを知った。それ以来、私は事あるごとにその岩へ登る。
ただ、その老人に会ったのは、あの時が最初で最後だった。それっきり、とんと見ない。
*
不意に、何かが聞こえた気がした。風に揺れるカーテンの様な、微かな音が。今まで一度も聞いたことの無い、不思議な音だ。
やがてその音がはっきりと聞こえるようになってくる。一体何の音だろう?
ゆっくりと目を開くと、隣にあの時の老人が座っていた。
「やっと、聞こえるようになったかい。坊主」
「ええ、そうみたいです」
どこかで、魚の跳ねる音がした。
ゆるゆると、時間は過ぎていった。
さあさあ皆さん、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。ただ今から始まる摩訶不思議なマジックを見逃しては、夜は眠れず死んでも死にきれないよ。良い子も悪い子も、大人も子供も、男も女も関係なし。お代はご覧になってからのお気持ちで。
用意は良いですか?では、ここに取り出したるは普通の箱。タネも仕掛けも御座いません。ところが、この箱に入れられた物はなーんでも消えてしまいます。信用できないって?宜しい、ではご覧に入れましょう。おうい、連れてきてくれえ。
「ちょっと、何すんのよ!こんな所に連れて来て何するつもり?!」
今宵消えていただくのはこの威勢の良いお嬢さん。はい、皆さん拍手ー。
「は?あんた何言ってんの?早くこの縄解きなさいよ!この人でなし!」
随分と演技がお上手で。さて、それでは早速。よっこいせと。
「ちょ、何よこの箱!あ、やめてよ、蓋を閉じないで!暗いのは嫌いn…」
はい、蓋もしっかり閉じましたー。何処からも出ることは出来ません。しかし、これから私が合図をすると、箱の中のお嬢さんはすっかり消えてしまいます。良いですかー?それではいきますよ。
ワン、トゥー、スリー……はいっ!
どうですか?綺麗さっぱり、消えてなくなったでしょう。
え?お嬢さんは何処へ行ったのかって?そりゃあ、消えたんですよ。言ったでしょう?タネも仕掛けも無いってね。
部屋の掃除をしよう。
荒れに荒れた部屋の真ん中に立って決心する。
床は新聞紙や雑誌やらで埋め尽くされ、そこかしこで色々な物がひっくり返り、クローゼットからは衣類がはみ出ている。
「よくもまあ、こんなにするねえ」
手始めに床に落ちているゴミを拾いながら呟く。と言っても、こうしたのは僕自身なのだが。
大きなゴミを拾い集め、埃を吸い取り、無くしたと思っていた物との再会を楽しみながら掃除を続ける。
リモコン、何かの鍵、オイルライター、ピアス、剥き出しのCD、思い出の写真。
いつの間にか部屋の掃除から思い出との邂逅へと目的はかわっていた。ゴミを掻き分け、何か無いかな、と無意味な物色。自覚しつつも、これが堪らなく面白い。
衝動買いした用途不明の道具、学生時代のアルバム、かつて恋人だった人の物、色々、色々。
時の経つ事も忘れ、ゴミに埋もれた過去の発掘作業を続ける。丁度良く風化し、美化された過去に触れること。それは僕の心を強く激しく惹きつけ、僕はその誘惑に逆らう事が出来ない。
やがて風化したはずの過去は色を取り戻し、あの時の情景を鮮明に思い起こさせる。忘れていたこと。忘れたかったこと。後悔。懺悔。
僕は一頻り泣いた後、元々の目的を思い出し、その思い出たち一つ一つを綺麗に掃除した。
なるべく過去を思い出さぬよう、何も考えずに、黙々と掃除をした。
そして、あれほど汚れきっていた部屋は、数時間後には見違えるほどに綺麗になっていた。
僕の記憶も、こんな風に綺麗になれば良いのに。何もかも捨ててしまえば、楽になれるのに。
綺麗な部屋の入り口で立ち尽くした僕の頬に一筋の涙が流れる。
そして僕は再び部屋を汚す。捨てることの出来ない思い出を撒き散らす。
暴れ疲れてその場に倒れこんだ僕の視界に、薄汚れた写真立てが見える。
そこには、幸せそうに並んで写っている僕とあの人がいた。
僕はそれを掴み、残った力で思い切り壁に叩きつけると、そのまま目を閉じた。
ああ、明日もまた掃除をしないと。
なあ、あんた、催眠術は信じるか?え?あんなのTV番組のヤラセだろうって?それがな、催眠術は本当に出来るんだよ。やろうと思えば殺人鬼だって作れるのさ。いや、別に殺人鬼の催眠をかけようってんじゃないんだけどな。
ともかく、だ。催眠てえのは、言ってみれば脳へのプログラミングだ。性格から、言葉づかいから、好き嫌いまで変えることが出来る。その上、催眠をかけた、って記憶もイジれるわけだ。これがどう言う事か分かるか?そう、催眠をかける事が出来れば、人一人、いや、何人でも好きに出来るってことだ。もし悪いやつが使ったとしたら、ゾッとしないか?
一口に催眠つっても、紐をくくりつけたコインで「ワン、ツー、スリー!」なヤツだけじゃないのは知ってるよな?たとえば、サブリミナルってやつだよ。言葉だけなら聞いたことがあるだろ。有名な話じゃ、とある映画館で、映画のフィルムのコマの途中にコーラのコマを入れて上映したら、コーラの売上が激増したってんだからな。
人ってのは、結局の所ノウミソが中心なんだな。複雑で精密なノウミソがあるからこそ、人は人たりえるってわけだ。その人の中核を自由に操作できるって事が、どれだけ有用で、どれだけ恐ろしいかって事は分かるだろ?
で、この話の本題な訳だが。実はな、今この国じゃ大規模な催眠政策が取られている。それこそTVやラジオ、メディアと呼ばれる媒体は殆どが国の操作を受けてる。さらに、全国を細かく地区分けして、その地区一つ一つに、住民に催眠をかけるエージェントを紛れ込ませている。最近見なかったか?妙になれなれしく話し掛けてきた人を。そいつがそうだ。
ああ、そりゃあにわかには信じられないだろう。正直、話している俺も馬鹿げた話だと思ってる。でもな、この国は国民を自由に操ろうとしている。国に忠実に従う奴隷集団を作り上げようとしてる。これだけは本当だ。信じてくれ。
先にも言ったとおり、悪意ある催眠をかけられてちまったら、その催眠の記憶は消されちまうから、自覚が無いんだよ。だが、催眠をかけれるって事は、解く事も出来るってことだ。そこで俺の出番って訳さ。俺はこの国のやり方が気に入らない。他にも同じ事を考えている仲間がたくさん居る。そうだな、良く言えばレジスタンスってやつだ。そのレジスタンスの活動の一環が、国の催眠にかかった人を助ける事って訳だ。
ん、結局何が言いたいのかって?まあ、端折って言うと、あんたは国の催眠にかかっちまってる。嘘だと思ったろう?それが催眠にかかってる証拠だよ。俺が上手いこと解いてやる。別に痛い目に遭わせるとか、そう言う事は無い。ただ、ほんの10分ぐらいそのソファーにでも座っててくれさえすればいい。便乗して変な催眠をかけるなんて事は神に誓って無い。信用してくれていい。あんたを助けたいんだ。やらせてくれるだろ?
そうか。有難う。それじゃあ、早速始めようか。
*
だからさっき、馴れ馴れしく話し掛けてくるヤツは危ないって言っただろ?ま、これでこの地区の洗脳は終了したし。さて、上に報告にでもしに行きますか。
貴方は人の死ぬ瞬間を見たことがあるだろうか。私はある。それも、数え切れないほど。
私の職業は死刑執行人だ。大罪を犯した者を法の権力の下に、死をもって断罪する。世論では色々言われているようだが、私は死刑に賛成だ。何故なら殆どの人は悔い改め、己の罪の重さを知り、そしていっそのこと殺してほしい、と願う。極一部には人を殺そうが何とも思わず、その上自らの死にまで快楽を感じる異常者が居るには居るが、個人的な感想からもそんな輩は殺してしまって構わないだろうと思う。人の命は尊い、とよく良識人は口を揃えて言うが、人以外を殺すことには特に言及しない事から、人の姿をした人以下の存在を殺しても何の問題も無いと思う。よって私は死刑に賛成な訳だ。
死刑にされる人にも色々な事情がある。特に、怨恨で罪を犯した人の死刑は、余り気分の良いものではない。終始後悔と懺悔を口にし、最後には嗚咽を垂れ流しながら死んで行く。なまじ正当性のある犯行動機で死刑にされた囚人だと、その思いもひとしおだ。
逆に楽と言うか、私自身の人格の問題かもしれないが、そう、すかっ、とする例もある。例えば愉快犯の類だ。こういう連中は、さも誇らしげに自らの行いを語って聞かせる。やれあの時殺した相手は酷く怯えて愉快だっただの、やれあの場所で殺したときは爽快だっただのと、正直死刑の期日が待ち遠しい程の嫌悪感を感じる。さらに悪いことには、大概その手の人種は非常に頭がキレる。少しでも気を抜こうものなら、虚を突かれる事が多々あるので、常に細心の注意を払って扱わねばならない。
今日話すのは、後者のとある人物だ。
ヤツは冬の寒い日に護送車で運ばれてきた。痩せ型だが体つきはしっかりとしていて、背はそれほど高くなく、そして卑しく光る眼光が印象的だった。そして、ヤツは普通の死刑囚とは扱いが異なっていた。と言うのも、とても囚人一人を運ぶとは思えない重装備の護衛を4人も引き連れてやって来たからだ。その次点で、その当時それなりの経験があった私はヤツが非常に危険な人間だと言うことが分かった。
果たして私の予測は的中し、ヤツは収容当日から問題を起した。昼食後の自由時間に、他の囚人3人を医務室送りにしたのだ。一人は右腕複雑骨折。一人は眼球破裂で結局失明。最後の一人は耳を噛み千切られていた。
当然ヤツは拘束衣を着せられ、猿ぐつわをはめられた後に数日間の拘束室送りとなった。
ヤツの居ない間は至極平穏だったのだが、拘束が解けた直後も繰り返し問題を起すので、ヤツに対しては特例で常に拘束衣を着用させる事となった。
自由に体が動かせなくなった所為か、ヤツは以前にも増して雄弁になった。棟中に響くかのような大声で、口汚い言葉を吐くのである。私はよっぽど猿ぐつわをはめてやろうかと思ったが、手出ししない分には放って置けばいいとの上の意向により、数日間の間、昼夜を問わずヤツの罵声を聞き続けることとなった。
死刑執行日が近くなったある日である。突然ヤツは大人しくなったのだ。しかし、反省している、というよりも、何か不敵なものを感じた私は、初めて自分からヤツに話し掛けてみることにした。
「おい、何故急に静かになった」
「反省したんだよ」
「とてもそうは見えないがな」
「分かるかい」
「おまえの反吐の出そうなにやけた顔を見れば誰だって分かる」
「クハハハ、そりゃそうだ」
「…一体どういう風の吹き回しだ?」
「知りたいか?」
「言いたくないなら別にいい」
「おいおいおいおい、ちょっと待てよ。訊いといてそりゃねえだろう。言うよ」
「……」
「おりゃあな、死なないんだ」
「なるほど、これから死刑になるのに、か」
「そうだ。これで4回目の死刑だよ」
「4回目?それじゃあ、私の目の前に居る狂人は幽霊か幻って訳か」
「いいや、違う。俺は生きてる。3回とも、死刑に失敗したんだよ。何度やっても縄が切れる。俺は神に愛されてるのさ」
「お前みたいな人間を神が救うとはとても思えないがな」
「調べてみりゃあ分かるし、今度の死刑でも実証してやるよ。俺は、死なない」
「楽しみにしてるよ」
調べてみた結果、本当にヤツは3度の死刑から生還し、釈放されている。報告書には、原因不明のトラブルにより死刑執行不能な為、と書いてあった。原因不明のトラブルが、ヤツの言っていた縄が切れたことだろうか。何にせよ、幸運は続かない。今度こそ、私の手で死刑を執行してみせる。
ついに死刑を執り行う日がやってきた。独房から拘束衣を着せられたヤツが連れ出されてくる。
「13階段が楽しみだ」
ヤツは私とすれ違う時、そう耳元で囁いた。
ヤツに黒い頭巾がかぶせられ、手は後ろで縛られた。縄は事前にしっかりとチェックしてある。今度こそ、ヤツの強運も終わるはずだ。
「****、前へ!」
「これより、****を刑法**条殺人の罪により、死刑に処する!」
「最後に何か言い残すことは?」
「…4度目の質問だがな。人を殺すことの何が悪いんだ?お前らは俺を殺す。お前らも死刑じゃねえのか?こんな矛盾だらけのまま死んでたまるか。俺は死なない!」
ヤツはそう宣言すると、慣れた足取りで階段を一段一段上がり始めた。そして看守に手伝われること無く縄に首を通すと、こう叫んだ。
「さあ殺せ!殺人者共!」
私は壇上の床の開閉を操作するボタンを押す。勢い良く開いた床。支点を失い自由落下する人間。縄がぴん、と張る音が聞こえた。
*
そうして、ヤツは生き残った。3度あることは4度ある、と言うことだろうか。縄がぴんと張った直後に、あれほど入念に調べた縄が千切れたのだ。そしてヤツは軽い打ち身を2,3個作っただけで、のうのうとこの刑務所から出てゆくのだ。
「だから言っただろう?俺は死なない」
「……」
「まあ、また世話になるかも知れねえし、そんときは今度こそ縄が切れないようにしておくんだな」
「…言われなくてもな」
「ああ、シャバの空気はうめえなあ。それじゃあな、死刑執行人さん、よ」
私は悠々と歩いて行くヤツを見届けることなく回れ右をした。納得が行かない。もしも運命があるとするなら、今日ほど運命を呪った日は無いだろう。理不尽な不甲斐なさと敗北感を感じ、下唇を白くなるほど噛み締める。
その時だ。背後で大きなクラックションの音の後に、鼓膜を突き破るかのようなブレーキ音、そして何かの衝突音がした。
「おい!人が轢かれたぞ!」
「やっちまった…お、俺は悪かねえぞ!こいつが急にふらふら道路に飛び出して…」
「誰か救急…いや、こりゃ警察だな」
私は振り返る事無くそのまま歩みを進めた。今日は幾分清々しく一日が終わりそうである。
「ねえ、それ貸して」
「嫌だよ。僕の宝物だもの。もし壊されたりしたら困るよ」
「大丈夫だよ。大切にするから、貸してよ」
「駄目だったら」
「いいから貸せよ!」
「あっ!」
ガシャン。
小学校の頃だった。ケンちゃんの大切にしていたおもちゃが、羨ましくて羨ましくて仕方が無かった。だから僕はケンちゃんに貸してくれるように頼んだのだけれど、でも、ケンちゃんは貸してはくれなかった。それで僕が無理矢理に取ろうとして、ケンちゃんのおもちゃを壊してしまった。悪気は無かったんだ。一度、たった一度だけ遊ばせてくれれば良かったんだ。それで僕は諦めようと思った。本当に。
僕は結局ケンちゃんには謝らなかった。
「お前が貸してくれなかったのが悪いんだからな!」
そう言って僕は一目散に走った。何だか分からないけれど、とても怖かった。
本当は僕は、謝りたかったのに。壊してごめんね、って、言いたかったのに。
でも、もう遅い。
*
「ねえ、何とか言ってよ」
「……」
「何とか言ってみなさいよ!」
「……」
「…私より、あの女の方が良いのね」
「……」
「…さよなら!!」
大学の頃だった。彼女とは別の女性と、生涯で一度きりの浮気をした。でも僕は馬鹿だから、彼女にすぐ浮気の事がばれてしまった。責められて当然だ。嫌われて、当然だ。
こう言ってはきっとまた彼女は怒るだろうけど、ほんの出来心だったんだ。あの時二人は上手く行ってなかったし、そういうイライラが重なってついしてしまったんだ。きっとあてつけにしてやろう、って思ってしまったんだ。
でも、本当に好きだったのは君一人だったんだ。それは今も、これからも決して変わることは無い。決して。
出来れば君との関係をやり直したかった。
でも、もう遅い。
*
「なあ、頼む!一生のお願いだ!」
「いくら親友のお前の頼みでも…」
「な、俺たち、友達だろ?絶対上手くやるから!頼む!」
「…そこまで言うなら…」
会社の同僚で、学生時代からの親友だった村田。あいつは今の会社を辞め、独立するための資金をかき集めるために、僕に借金の連帯保証人になってくれ、と頼みに来た。かねがね、連帯保証人にだけはなるな、と聞いてきたが、独立後の計画と、何より村田の頼みと言うこともあって、僕は借金の連帯保証人になった。
その後村田は突然失踪。独立の話自体が嘘で、会社の金まで使い込んでギャンブルに精をだした挙句に消費者金融に手を出したと言うことを、別の同僚から聞かされた。当然、その日から僕の家の前ではドラマで見るような光景が繰り広げられていた。
会社にまで電話が掛かってきたお陰でクビになり、僕は家に引きこもる生活を始めた。布団を頭からかぶり、日の出ている間は必死で居留守を使い、夜になってから見つからないように食べ物などをコンビニへ買いに行った。酷く惨めな気分だった。
騙された、と知ったときは村田を殺してしまいたいほど恨んでいたが、それも今ではどうでもいい事だ。
僕はそんなことよりも他に手は無いか、と考え、この現状をどうにかしようと努力した。
でも、もう遅い。
*
部屋に入ると酷い異臭がする。部屋の真ん中には、電灯のコードで首を吊った男の姿があった。ドアの外には金を返せ、だの、泥棒、と書かれた紙が大量に貼ってある。
「異臭がする、って通報で来てみれば…自殺かねぇ」
「大方、借金苦に…って所でしょうか」
「やりきれねえなあ」
「本当に…」
虚ろで輝きを失った男の瞳には、もはや何も映ってはいなかった。
俺は死んだ。事故だった。雨の日にバイクを乗り回した挙句にスリップしてこのざまだ。
ま、もともとろくな人生は歩んでは無かったし、この辺で終わらせた方が良かったのではないか、という思いもある。
だが、死んだ俺には分かる。どんな人でも、自分が死んだ時は、この世に多かれ少なかれ想いを残す。
例えば俺の残した想いは、今俺の遺影の前で泣き崩れている元彼女に向けられていたりする。死んだ直後、自分のボロボロになった体を眺めていた時は「ああ、こんなもんか」と、それほどショックではなかった。それが、自分の体が灰になった後、彼女の泣き喚いている姿を見て、思い切りハンマーで脳天を叩かれたような気分になった。
俺にとっての彼女は一体何だったのだろう。付き合いだしてからと言うもの、良い思いをさせる事が出来たのは数えるほどしかない。もし彼氏としての格付けをするならば、間違いなく最低ランクであっただろう。そんな俺のことを、彼女は何故慕い、何故泣いてくれるのか。
そう言えば彼女は、事あるごとに「私のこと好き?」と訊いてきたものだった。質問の意図を理解しかねたので、その度に「好きだよ」とは返していたものの、本当の所彼女はどうだったのだろう。彼女は僕のことを好きだったのだろうか?考えてみれば、彼女に僕に対する気持ちを訊いたのは告白したときだけだった。訊く、と言う事は、彼女は不安だったのだろうか。不安って、一体何に?答えは出ない。
僕は彼女の泣く姿をただ見ていることしか出来なかった。
*
彼が死んだ。事故だった。彼とのデートの後、家に帰った私が暫くリラックスしていると、突然携帯電話が鳴った。てっきり彼だと思い慌てて出た私に告げられたのは、彼が死んだと言う事だった。
そして、今目の前には彼の生きていた頃の写真が立てられている。私が彼と海へ行ったとき、こっそり撮った写真。とっても自然な笑顔で、こちら側に笑いかけてくる彼。現像して見せた時、彼に恥ずかしいから捨てろ、と言われたけれど、こっそりネガごと、とっておいたのだ。彼の訃報を知り、葬式の準備をしていた彼の両親に挨拶をした時、彼は写真嫌いで家には1枚も彼の写真が無いから、良ければ私の持っている写真を遺影に使わせて貰えないか、と相談され、私は迷う事無くこの写真を差し出したのだ。
交際のきっかけは彼の告白だった。私は告白されるまで全く意識していなかったのだけれど、単刀直入に好きだ、と言う彼の瞳に何かを感じた。それからと言うもの、私は彼にどんどん惹かれていった。不器用で荒削りだけど、恥ずかしがりやな性格。彼が私のことを好きだと言う事は良く分かるけれど、やっぱり言ってもらえないと不安になってしまうから、1日1回は「私のこと好き?」と訊いてしまう。それに彼は、はにかんで「好きだよ」と答える。その仕草が何だか可愛くて、私はついつい何度も同じ質問を繰り返したものだった。
別に何処に連れて行って貰えなくてもいい。プレゼントも要らない。彼と一緒に居られることが幸せだった。でも、もう彼に会うことは出来ない。バイクに一緒に乗せてもらうことも、家のソファーで寄りかかりあうことも、言い争いをする事も出来ない。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だよ。
*
気がつくと、窓の外が白み始めていた。腫れた目を擦りながら、一晩中泣き明かしたのだと分かった。見上げると、彼はこちらに笑いかけている。つられて私も笑う。泣きすぎて涙も涸れたみたい。笑いしか出てこない。今でも、私のこと好き?と呟いてみた。彼はこちらに笑いかけている。
……どこからか、愛してる、と言われた気がした。
明日、地球は終わる。
よく分からないが、どうやら太陽が大きくなって地球を飲み込んでしまうらしい。世界の偉い人がどうにかしようとしているけれど、どうやらそれも徒労に終わるだろう、ってニュアンスの事をニュース番組のコメンテーターが無機質な声で読み上げた。
「それでは、皆さん。最後の一日をどうか有意義にお過ごし下さい」
やはり無機質な、業務的な声でアナウンサーがニュースの終わりを告げた。
きっと皆、明日で地球が終わるなんて事をまだ信じられていないんだと思う。明日も同じように陽が昇って、会社や学校に行き、同じような一日を過ごして、陽が沈んだら家に帰るものだと思っているのだろう。そりゃあそうだ。こんな唐突に、明日全てが終わりますなんて宣告、一体誰が信じるのだろう。
でも、それは現実なんだ。
僕は最後の一日だと言うのに、特に何も考えず学校へ向かうことにした。いままでもそうだったし、今日もそうなのだ。違うのは、明日が無いと言うことだけ。
頭上には気味が悪いほどに赤黒く光る太陽が、普通の十倍ぐらいの大きさで、ぬめぬめとした嫌な光を放っていた。視界に映る物全てが赤茶けて見える。なるほど、これは確かに異常事態だ、と僕は頭で理解をしても、いまいち実感が沸かない為かいつも通り足を動かすだけだ。
真っ赤な商店街を通り抜け、真っ赤な駅の改札を通り、真っ赤な電車に乗る。車内も当然真っ赤に染まっているが、そこに居る人々の表情には特に変化は無い。ここまで自然体だと、明日地球は滅びると言うのが何か壮大な嘘の様な気がしてきた。国連でこの日の為の会議を真面目にしている情景を思い浮かべて、少し可笑しくなった。
電車を降り、駅から学校へ向かう。往来には僕と同じ制服を着た生徒達が、やはりいつもと変わらず談笑をしながら歩いてゆく。なんだか、酷く妙な気分だ。
「よう」
後ろから肩を叩かれ振り向くと、クラスメートの顔があった。
「明日だな」
「何が?」
「地球が終わる日だよ」
「ああ…」
やはり僕の脳内では、終わりの日を上手く思い浮かべられない。一体どうなってしまうのだろう?苦しくなければいいのだけれど。
「お前、どうする?」
「何を?」
「そりゃあ、最後の日なんだからさ。なんかするだろ?」
「何もしないよ。いつも通りさ」
「つまんねーヤツだな」
「今に始まったことじゃないよ」
「それもそうだ」
そうこう話しているうちに、学校に着いた。教室はやはりさっきと同じ話題で賑わっている。それはどうも、明日がお終い、と言う悲しみよりも、明日終わるんだ、と言う少し前向きな、何か面白いゲームの発売日の様な雰囲気があった。
僕は窓際の自分の席に座ると、頬杖をついて真っ赤な外を眺めてみた。
どこまでも、ひたすら赤い。まるで真っ赤なペンキの缶を雷様がひっくり返したみたいだ。
数分も呆けていると、何事も無かったかのように先生がやってくる。そしてやはり何事も無かったかのように授業をし、時間は過ぎていった。
僕はノートをとりつつ、「どーせ明日全部無くなっちゃうのに、こんな事に意味があるのかな」と考える。しかしそんな気持ちはおくびにも出さず、ただ黙々と、ノートをとった。
最後に先生は「それじゃあ皆、また明日」と言って教室を出て行った。長年の癖なのか、ここぞとばかりの皮肉なのか僕には判断がつかなかったけど、別に嫌な感じはしなかった。
帰り道は、朝よりも一層赤みが増していた。それこそ血の色みたいだ。ひょっとして明日消えちゃう人や動物の血が、今こうして流れているのではないか。そんなことを考えながら一人とぼとぼと歩いた。
家に帰ってテレビをつけると、連続ドラマがやっていた。話は途中で、どう考えても今日中に終わりそうに無い。このドラマのファンの人が居たら、きっと続きが気になって死んでも死にきれないだろうなあと考えながらテレビを消した。
「ねえ、母さん」
「何?」
「ホントに、明日でおしまいなのかな」
「そうねえ。嘘だと思いたいけど」
「うん、僕も」
終わりを目の前にした会話とは思えない程の淡白さ。
いつも通りに食事をして、寝る用意を整える。
「おやすみなさい。また明日」
僕はいつも通り寝る挨拶を言うと、自分の部屋に入った。
窓の外には真っ赤な太陽の光を受けた、真っ赤な月がらんらんと輝いていた。
僕は必死で作り笑いを浮かべる。
君は無邪気に、踊るように浜辺で波と戯れている。
僕はそれを、少し離れた所に座って眺める。
時折君はこっちに手を振り、僕はそれに応える。
僕は、ここから動くことは出来ない。
いや、動いた所で意味はない、と言うほうが正しいだろうか。
何をしようとも決して変える事は出来ない。
今までに何度も試したのだ。そう何度も。
君はやがて、浜辺を離れ沖へ向かって浮き輪もつけずに泳ぎだす。
波に逆らいながら、ゆったりと、君は遠ざかる。
やがて君は突然波間に消える。
暫くすると、浜辺に海藻と一緒に君が打ち上げられる。
僕は必死で作り笑いを浮かべる。
ああ、一体何度こんな事を繰り返させるつもりなのだ。
僕は神を心から呪った。
そして僕は、またこちらへ手を振る君へ向けて必死の作り笑いを浮かべる。
これが僕の贖罪。これが僕の地獄。
また君は海に消える。
さざなみの音だけが辺りに響いていた。