「な、なんじゃこりゃあ」
俺は慌てて後ろ手でドアを閉めると、震える手で鍵とチェーンをかけた。
こんな所を人に見られる訳にはいかない。
なんてったって、生首がテーブルの上にあるのだから。
何故、どうして、いつ、どこから、どうやって、誰がこの生首を持ってきたのか。当然朝は無かったはずだ。少し買い物に出かけた数時間の間に、誰かが侵入し、ご丁寧にも顔をドアの方へ向けて生首を置き去って行ったのだ。だが、何故?どんな理由があって、俺の部屋に置いて行ったのか。生首の彼の顔は、見た覚えが無い。
暫くドアの前で硬直していたが、「もしかしたら、精巧に出来たマネキンか何かかもしれない」と言う可能性を思いついたので、意を決して生首に接近してみることにした。
生首は目と口を閉じていて、その顔からは表情が欠落していた。眠っているのとも違う。確実に死んでいるか、作り物かのどちらかだろうと予想した。出血は無いので、もし生首だとしたら他の場所で切断された後にここに置かれたのだろう。俺は恐る恐る生首に手をかけると、ゆっくりと持ち上げてみる。重い。確実に、中身は詰まっている。血こそは出てはいないが、触感や重量感から言ってまず間違いなく生首だという判断を脳が下したと同時に、俺は思い切り生首を放り投げ、その場に腰を抜かして座り込んでしまった。
恐怖で声が出ない。
生首はごろごろと床を転がり、ちょうどこっちを向くような感じで壁に当たって止まった。投げた拍子に目が開いてしまったようで、半開きの虚ろな目と視線が合う。ついに意識の糸が切れ、僕はその場で昏倒してしまった。
*
何時間倒れていたのだろうか。気がつくと俺はとんでもない姿勢で床に寝転んでいた。あれ、何でこんな所で…と思った瞬間、再び転がっている生首と目が合った。感覚が麻痺したのか、それとも判断能力がぶち壊れたのかは分からないが、自分でも変だと思うぐらい妙に落ち着いている。とりあえず、その冴えたままの頭でどうするか考える事にした。
案一、ゴミ袋に包んで捨ててしまう。いやいや、もし見つかったら死体遺棄か何かで捕まってしまう。これでは駄目だ。
案ニ、ひたすら隠しとおす。……生首との生活なんて無理に決まってる。それに腐る。
案三、手っ取り早く警察に通報する。これだ。
「あの、部屋に生首が転がってるんです。いや、嘘じゃないですって。ちょっと出かけて帰ってきたら部屋に誰かの生首があったんです。いえ、狂言とかではなくて。本当なんですって。あれ、ちょっと、おーい」
電話を切られた。万事休す。
そうだ、もしかしたら誰かの忘れ物かもしれない。誰のだ。よくよく考えて見ると、誰かがこれを意図して置いて行ったに違いない。生首の意図する事。
「……殺される?」
十中八九殺人鬼ではないか、と言う考えしか浮かばない。この生首は「お前もこうしてやるぞ」って意味の予告なのではないか。ならば、ここに居ては危険だ。
俺は慌てて家を飛び出したものの、あのままでは家に帰ったことを気付かれてしまう。仕方なく一旦家に戻り、生首を持ち上げ、瞼を閉じてもとの通りにテーブルに置いた。
……ここまでやったら犯人が誰か気になると言うものだ。
ドアに鍵をかけ、靴を手に持つと、俺はベランダの影に潜むことにした。幸いベランダは通りから見えない位置にあり、犯人がもしこの部屋に来ても見つかることは無い。俺は自分の家で何をしてるんだ。
*
ベランダの影から室内の様子を伺う事数時間。陽は落ちかけ、だんだんと寒くなってきた。今日は来ないのではないか。そんな希望を持ち始めた頃だ。
ガガガ、ガチャ。
誰かが外からドアの鍵を開けた音がした。この家の鍵は俺以外持っていない。とすると…。
キキッ…。
ノブを回す音がする。犯人だと確信した俺は、丁度ベランダに置いてあった短めの物干し竿をそっと手に取る。ベランダの影からは室内全てを見渡すことは出来ない。辛うじてテーブルと、その上にある生首を見ることが出来るだけだ。
ギシッ、ギシッ。
犯人は部屋を徘徊しているらしい。俺を探しているのだろう。ああ、もしベランダに入ってきたらどうしよう。こんな物干し竿一本で、殺人鬼を倒せるのだろうか。
ギシッ、ギシ。
犯人が立ち止まった。注意深く室内の様子を伺う。すると、テーブルの上の生首に手が伸びた。視界から生首が消える。
「あー、あったあった」
犯人の声がする。生首を捜していたのだろうか。ドアを開ければ目の前にあると言うのに?
「痛…。さては投げやがったな。畜生め」
何のことだか分からないが、毒づいているらしい。やはり、俺を殺す気だ。
「さて…」
そう言ったきり、何の物音もしなくなった。さらに注意深く室内を観察すべく、目を凝らす。
「みぃーつけた」
そう言って突然目の前に現れた顔は、あの生首のものだった。
「あ……」
俺は全身が粟立つのを感じた。
「痛いなあ、投げないでくれよ。ほら、たんこぶになっちゃったじゃないか」
生首だった彼は笑いながら言う。
「あああぁぁぁぁぁぁ!」
訳のわからなくなった俺は、思い切り窓ガラス越しから物干し竿でスイングするように彼の頭を殴りつけた。
ドッ、ドッド。
首が飛んだ。
目の前には、首の無い体が立っている。
「え……あ……?」
俺は呆然としながら、首に近づく。彼は最初見たときの様に、無表情で目を閉じて転がっていた。
「な、なんだよこれ……」
俺が酷く狼狽していると、首の彼は突然グリッ、と目を見開き、さっきの様な不気味な笑顔を浮かべた。
「酷いなあ。投げた上にそんなもので殴るなんて」
ぽん、と肩を叩かれる。振り向くと、首の無い体が、ナイフを片手に立っていた。
「そんな悪い子には、お仕置きだなあ」
首の無い体はナイフを振りかざす。
刃先がギラリと輝いていた。
この歴史的事態に直面し、危機的状況の中で、この事を後に出来るだけ正確に伝えるために日記を残す。
深夜に物凄い爆発音がし、僕の住んでいた街は壊滅的な状態に陥った。
生存者は限りなく少ない。
その上物資も少ないので、救助隊の到着が待ち遠しい。
一応僕はほぼ無傷であったので、他の数人の者と一緒に瓦礫の山から生存者を助け出そうとしたが、発見することは出来なかった。
まだ、あちこちで火の手が上がっている。消す手立ては、無い。
火は未だ消えず、辺りは熱気を持っている。
結局昨日の捜索では生存者は発見できなかった。
ろくに食事も取れないので、僕を含めた生存者全員は弱ってきている。
恐らくもう生存者は居ないと思われるので、せめて僕らだけでも生き残るために、生活用品を集めることにした。
幾つか見つかった中で、携帯ラジオを発見。スイッチを入れるも、電源はつくのだが電波を受信しない。
世界はどうなってしまったのだろう。
一抹の不安がよぎる。
やっと火の手は収まってきた。
9人居たうちの生存者が、昨日と今日で7人にまで減った。死体は近くに埋めておいた。この事態が一段落したら、改めてきちんと埋葬してやろうと思う。
今日も必要なものを集める。食料品は殆ど駄目になってしまっていて、ろくなものが見つからない。おまけに水道、ガス、電気が使えないため、情報は何一つ入ってこないし、僕らの餓えは酷くなってゆくばかりだ。
この街は一体どうなってしまったのか。
救助隊は来ない。
また一人減る。
相変わらず何も見つからない。何も状況は変わらない。
隣町の辺りまで歩いてみたが、同じような状況であった。
僕も限界が近い。立って歩くだけでも辛い。
他の5人は既に立つことすら出来ない。
救助はまだであろうか。
世界は滅びたのではないかと思う。
ラジオは終始ノイズばかりだし、見渡す限り死の大地だ。
もしかして僕は最後の人間なのだろうか。
もし誰か居るなら助けてくれ。
死にたくない。
今日も意識朦朧としながら辺りを散策したが、生きている人は見つからない。救助隊が来る気配も無い。
遂に少ない食料も底を尽きた。空腹感が酷い。横目には仲間の死体が見えるが、考えないようにする。
僕は人だ。
きゅうじょは こなかった
じをかくことも まんぞくにできない
あんなことまでしたのに
くるしい しにたくない
(以下判別不能)
*
現場で一人の死体と数体の白骨死体と共に発見された記録より転載。
投下された爆弾は数百発におよび、現場近隣一帯を焼き尽くした。
さらに、直後相手国から再度の攻撃を受け、救助隊の派遣が大幅に遅れた為、被害は更に拡大した模様。
専門家によると、被害総額**兆円、行方不明者を合わせた死傷者数は1万を超えるとの見解だが、正確な数値は未だ不明。
同年、我が国は報復攻撃を展開。我が国の威信をかけた猛攻により、翌年には相手国が降伏、現在は国連の管轄下におかれている。
今では現地に慰霊碑が建ち、記念館の建設も進められているとの事だ。
上記の発見された記録だが、傍らに倒れていた死体はまだ新しく、腐敗もそれほど進んでいなかったのに対して、他の死体は何故か白骨化しいた。記録の内容からも、何が行われたのか、想像に難くない。これは彼を批判するものではなく、如何に戦争と言うものが愚かしく、また悲惨な物なのかと言うことを広く伝えるためのものである。
バシャッ。
私の人生は、カメラと共にあったと言っても過言ではないと思う。生まれてすぐに写真を撮られた所から、私の「写される」人生は始まったのだ。
美しい母と美しい父より生まれた私は、当然美しかった。実際会った人どころか、道行く人まで振り返るのだから、別に断言しても問題は無いと思う。
何より自分の容姿に自信があったし、その分「性格ブス」なんてレッテルを貼られないよう、内面も美しくあろうと努めることも怠らなかった。私はパーフェクトに美しく在っていたかった。
バシャッ。
私が成長するにつれ、周りからはよく「芸能界に入ってはどう」と持ちかけられるようになった。私の美しさを存分に発揮できる仕事だと思った私は、大手のモデル事務所に履歴書を出した。結果は当然即採用。そうして私はわずか数ヶ月でトップモデルの仲間入りを果たした。
バシャッ。
私の活動はモデルだけに留まらなかった。ありとあらゆる方面で活躍し、いつしか最早私の顔を知らない人は居ない、と言わしめるまでの人気を獲得した。道を歩けばサインを求められ、公に出れば数百ものフラッシュを全身に浴びたものだった。
それでも特に煩わしいとか、鬱陶しいと感じたことは無かった。むしろ、写されることが快感でもあった。私をもっと見て欲しい。私にもっと関心を寄せて欲しい。そんな願望が日に日に強くなっていった。
バシャッ。
写真を撮られれば撮られるほど、「見られている」と言う感覚からか、より一層美しさに磨きがかかるのを私は感じる。だけど、いつまでも若さだけは保つことは出来ない。今の私と、写真の中の私では、今の私の方が古いのだ。写真を撮られる事は好きだけれど、現像された写真を見る事は物凄い苦痛だった。だからTVはおろか、新聞や雑誌に至るまで、私はともかく写真を見ないようにしていた。女性の人なら分かるでしょう?どれほど自分が醜く老いた姿を見るのが恐ろしい事か。
バシャッ。
昔の人は、写真を撮られると魂を抜かれる、と思っていたそうだ。現代から考えれば間抜けな話だけど、私はそうは思わない。厳密に言うと、抜かれると言うよりも削られると言う方が正しい気がする。世に出た大スターは、その殆どが短命だ。エルヴィス・プレスリーにしろ、尾崎豊にしろ。それは多分、写真に命を削られた所為なのでは無いだろうか。
バシャッ。
またフラッシュが光る。先ほどからカメラマンはひっきりなしに私を写している。段々と人が集まってきた。警察まで来ている。そう、もっと。もっと私を写して欲しい。そうすれば私の美しさは永久に残る。私が死んでも、写真の中の私は永遠に若く、美しいままなのだ。
ああ、深紅に染まったアスファルトに横たわる私は、一体どれほど美しいのだろう。
「いいか、頭だ。頭を狙え。出来る限り苦しめず、恐怖を与えず、一瞬で殺すんだ」
よく彼はそう言っていた。ああ、彼とは私の育ての親のようなものだ。幼くして親に捨てられた私を拾い、実の親のように育ててくれた人。ただ、普通と違うのは、彼がプロの殺し屋だった、と言う事だ。
見かけは普通の中年である。何処にでも居るような、少し髪が薄い、恰幅のいい男だ。道行く人に彼の写真を見せ、「殺し屋だ」と答えられる人はまずいないだろう。
しかし、仕事の依頼を請けた途端に彼は豹変する。眼光鋭く、狡猾で獰猛なハンターになるのだ。
「銃器と名のつく物なら何でも扱える」
そう言う彼の愛用していた銃は、リボルバー型で40口径の特注品だった。グリップから銃身に至るまで、細部に渡り細かく注文を出した至高の一品らしい。銃身の横とグリップに刻まれた十字架は、彼の業の深さと祈りを象徴するようだった。
「俺だってなあ、好きで人殺しをするわけじゃない。仕事だからだ。やらなきゃ、俺が殺される。死にたくないから、殺す。そう、自分勝手だ。自分勝手に生き物を殺して良いわけが無い。でもしなきゃならない。わかるか?」
彼は仕事の後、よく酒を飲んでは私に愚痴をこぼした。
「だから、1発で、苦しませず、怖がらせず、楽にしてやるんだ。生きるのは辛い。だが死ぬのはもっと辛い。少しでも楽に殺してやるのが、俺のエゴで殺される人に対する贖罪なんだよ」
そう言って、彼は泣いた。
*
程なくして、私は彼に銃の扱いを教えてくれと頼んだ。今まで自分の仕事のサポートや、愚痴を聞いていた私の言い出したことだからか、彼は何も言わずに頷いた。
「そうだ、ひじをしめて、足を前後に開け。撃つ時は1発で仕留めろ。死に難い所は狙うな、頭だけを狙え」
熟練のプロに教わっただけあって、私はすぐに銃の扱い方を憶えた。また、彼の仕事を、たびたび手伝わせてもらえるようにもなった。
そして数年が過ぎ、遂に私もプロの殺し屋の仲間入りを果たした。
*
初めて「私」として請けた仕事。未だに忘れることは出来ない。
ターゲットに近づくことは容易だった。ソファーに座るターゲットの背後に立ち、後頭部へ銃口を向ける。だが、引き金を引くことが出来ない。
「どうした。撃て」
彼は落ち着いた様子で話す。
「撃たないと、お前が殺されるぞ」
掌がじっとりと汗ばんでいる。
「どうしても…撃てないんだな!」
彼は振り向きざま、懐から銃を抜き、そして―。
パン。
火薬の弾ける、気の抜けた音が室内に響いた。
「…そうだ、それでいい」
彼は口から血の泡を出しながら、かすれる様な声で言った。
「だが…殺し屋としては二流だな。頭を狙えと教えただろう?」
そう言うと彼は笑った。腹の底から笑った。やがて笑い声は小さくなり、止まった。
ふと彼の握っていた銃を手に取る。弾は入っていなかった。
カチン。
撃鉄が空しい音を上げる。
私は彼の銃を懐のホルダーにしまうと、懐かしい部屋を後にした。
胸の十字架が、酷く重く感じられた。
「あなたの手、とても優しい」
かのじょはいつも よくわからない いいかたをする
「ううん、雰囲気とかそう言うのじゃないの。ただ、なんとなく」
ぼくは ただ「うん」ということしか できない
「あなたって不思議ね。今まで色んな人と出会ってきたけど、あなたみたいな人は初めて」
ぼくは すこし こわくなる
「もちろん、良い意味でよ。わたし、あなたの事が好きだわ」
やっぱり ぼくは 「うん」としか いえない
「無口なのね。でも、何も想いを伝えるのは口だけじゃないわ。手も、体も、臭いも、呼吸も、想いを伝えることが出来るの」
ぼくはやっとのことで「そうだね」と いった
「ああ、あなたの事が視えたらいいのに」
ぼくは「そんなことない」と いった
「そうね。視えなくとも、あなたは素敵だもの」
ぼくは ないしん むねをなでおろす
つたわっては いないだろうか
にぎった てから
かのじょがてをまわしている からだから
ぼくのみにくい においから
ぼくのあせりの こきゅうから
きっと かのじょは ぼくのすがたをみたら
「それでも人は、叶わない夢に手を伸ばすのね」
そういって かのじょは りょうのめから なみだをながす
ぼくは「うん」ということしか できない
トゥルルルル トゥルルルル
また電話が鳴る。
「はいはいはいはい、今度は誰ですか…っと」
ここのところ、家にしょっちゅう電話が掛かってくる。電話の相手は友人だったり、親だったり、妙な勧誘だったりするのだが、それにしたって多すぎる。電話を切ってソファーに座った途端にまた鳴り出す、なんて事はザラなのだ。
「…はい」
俺はさも不機嫌そうに受話器を取り、これでもか、とばかりに不機嫌な声で電話に出る。
「わたし、マリー。今**駅に居るの」
…なんだこのベタベタな電話は。悪戯と割り切った俺は、「ああ、そうですか」とだけ言って受話器を置いた。
「ったくただでさえ五月蝿いっつーのに…」
ぶつくさと呟きながらソファーに戻りTVを眺めていると、再び電話が鳴った。
「…はい」
さっきと同じように、不機嫌そうに電話に出る。
「わたし、マリー。今**通りを歩いているの」
今度は何も言わずに、ガチャリと派手な音を立てて切る。まったく、人をおちょくるにも程がある。俺は台所へ行き、冷蔵庫から発泡酒を一本と、実家から送ってきた塩辛を取って、ソファーに寝そべりながらちびちびと呑み始めた。
トゥルルルル トゥルルルル
またも電話が鳴る。俺が無視をしていると、電話機が自動的に留守録モードになった。
「現在留守にしております。ご用件のある方は、ピーッと言う音の後にお話ください」
ピーッ
「わたし、マリー。今コンビニの前に居るの」
ふと疑問が沸き起こる。この悪戯主は何がしたいんだ?…そう言えばさっき何て言った。**駅と確かに言っていた。俺の家からの最寄り駅じゃないか。**通り。駅から俺の家のほうへ向かって来るときによく使う通りだ。そしてコンビニ。俺の家のすぐ近くにはコンビニがある。もちろん、**通りから歩いてくると、だ。
もしかして、マリーだかメリーは俺の家へ向かっているのか?だとしたら、何のため…?
トゥルルルル トゥルルルル
これは、悪戯じゃない。俺は無意味に慎重になりながら、受話器を取った。
「…はい」
「わたし、マリー。今あなたの家の前に居るの」
全身に鳥肌が立つ。数秒言葉を失ったが、すぐに自分を取り戻し、早口でまくし立てるように言った。
「なんだよお前誰だよ何が目的なんだいい加減にしろ!」
しかし、相手からの返事は無い。そっと受話器を置くと、俺はドアに近づき、覗き穴から外を伺う。
「…誰も…居ないよな」
やはり、悪戯なのだろう。どうせ悪戯好きな友人グループがやってるに決まってるのだ。はは、マリーだって?まるで都市伝説まんまじゃないか。
トゥルルルル トゥルルルル
いい加減しつこい。俺は少しイラつきながら受話器を取る。
「おい、いい加減しつこいぞ。もう本気で怒るからな」
「わたし、マリー。今あなたの家の玄関の前に居るの」
ピンポーン
ドアチャイムが鳴った。受話器を持ったまま、ドアの方を向いて硬直してしまう。
ゆっくりと受話器を置き、音を立てないようにしてドアに近づくと、そっとドアノブに手をかける。玄関に置いてある傘を片手に、そっとドアを空ける。
「わっ!」
ベタな脅かし文句と共に現れたのは、長い付き合いになる彼女だった。
「びっくりした?」
そう言う彼女の手には携帯と、何処で買ったのか小型の変声機があった。
「…何だよ、マジでビビっちまったじゃねーかよ!」
驚きと安心で、つい声が大きくなる。
「ごめんごめん、ちょっと怖がらせてみようとおもってさ」
彼女はなんら悪びれずに答えた。俺は「ったく…」と苦笑すると、ふと気がついた。
「そんで、その後ろの子は…」
トゥルルルル トゥルルルル
「現在留守にしております。ご用件のある方は、ピーッと言う音の後にお話ください」
ピーッ
「わたし、マリー。今あなたの目の前に居るの」
幾度目だろうか。
もう殆ど弾の入ってない弾倉を確かめる。
外からは、断続的に自動小銃や迫撃砲、手榴弾の音が、何故か遠く聞こえる。
ああ、そうだ。ついさっきの爆撃で耳をやられたのだった、と、血が固まりかけてぬるぬるとしている耳であった場所を撫ぜる。
こんな状況なのに、何故か頭だけは冴えている。人間とは凄いものなのだな、と、再び弾倉を確かめながら思った。
戦況は、こちらの優位にある。これが終われば帰れるのだ。私は帰る。緑豊かな故郷へ。父と母と妻の待つ我が家へ。
*
現在我が隊は、最前線の民家一階に退避している。
衛生兵は此処に辿り着くまでに、敵弾によって腹にサッカーボール大の風穴を空けて死亡した。
残った同士はほぼ全員戦えるような状況ではなく、唯一、一人で立って歩けるのが私のみ。
友軍もその大部分が撤退し、我らは全くの孤立状態だ。
無線も通じず、もしや司令部も既に陥落もしくはそれに近い状態であるのではないかと言う懸念がある。
だが、我が隊は最後まで降伏などしない。
我が隊の隊員は、それぞれが憎き敵軍により家族や友を殺された者なのだ。
許せるはずが、無い。
たとえ四肢を引き裂かれようと、弾薬が尽きようと、最後の一人になろうと、戦う覚悟なのだ。
我らは勝利は望まない。敗北であろうと、構わない。
ただ、奴らを。そう、奴らを一人でも殺してやるのだ。
そして思い知らせてやる。
貴様らが「正義」の名の元に、一体どういう行為をしてきたのかを。
*
もう嫌だ。こんな所に一秒たりとも居たくない。しかし、外に出れば流れ弾に当たって死ぬかもしれない。仕方なく、私は自分の部屋で、鳴り響く爆音に身を強張らせるしかないのだ。
一体何故こんな事になってしまったのだろう。私たちが何か悪いことでもしたのだろうか?ただ、ごく普通の、慎ましやかな生活を営んできた私が?
窓の外は一面瓦礫の山で、そこに折り重なるようにしてたくさんの人が死んでいる。兵士、一般人、女、子供、死体「らしき」物。まるで地獄絵図だ。あちこちから黒煙が上がり、その間を縫うようにして兵士たちが駆けて行く。
彼らは、一体何の為に戦っているのか。
また、すぐ近くで爆音と共に土煙が上がる。
それはそこに居る者を、何の躊躇も、意思も、脈絡も無く滅ぼす為の物。
「お前らの方こそ滅んでしまえ」
誰に言うわけでも無くそう呟き、耳を押さえてしゃがみこんだ。
*
全てが過ぎ去った戦場。私はカメラを片手に、軍人の傍らに付き添って走り回る。
耳を無くした負傷兵。その亡羊とした目線を受けながらシャッターを下ろす。
敗戦を予見していたのだろうか。一人の軍人と、数人の敵兵が民家の中でバラバラになっていた。恐らく自爆したのだろう。光を無くした目線を捉えながら、シャッターを下ろす。
比較的損傷の少ない民家の窓から、安堵と絶望の入り混じった目線で街を眺める女性。その視線の先には、瓦礫の山と、おびただしい数の元命たちが折り重なっている。少し離れた所から双方をファインダーに収め、シャッターを下ろす。
ここには、正義も悪も無い。ここにあるのは、終わり無き絶望と、途方も無い犠牲のみだ。
僕には記憶が無い。
眼が覚めた時、僕は病室のベットで寝ていた。どうやら、事故に遭ったらしい。
そのショックで、僕は記憶喪失になった。と言っても、別に字が書けなくなったり、計算が出来なくなった訳ではなくて、いわゆる「思い出」の記憶を全て忘れてしまったみたいだ。
起きたとき側に居た女性。彼女は、どうやら僕の恋人らしい。僕の記憶が無くなった事にかなりショックを受けていた様だけれど、彼女は「思い出なんてまた作ればいいもの」と言ってくれた。事故に遭う前の僕は一体どんな人間だったのだろう。一つ言える事は、彼女みたいな女性を恋人にするなんて、憎たらしい奴だと言うことだ。
医者の言う話では「一時的なショックで、脳が錯乱しているだけの可能性がある」らしい。つまり、何かの拍子に記憶が戻るかもしれないし、逆に死ぬまで戻らないかもしれないと言う事。彼女は「ゆっくり取り戻していけばいいよ」と言ってくれだけど、でも。僕は知りたい。僕がどういう性格で、どんな人間だったのか。
そうして、僕の自分探しの旅は始まった。
学生時代のアルバム。彼女とは別の女性と写っている写真。どれに写っている僕も、僕であって、僕で無い。それらをずっと眺めていると頭痛がしてくる。まるで、思い出されることを拒んでいるように。
僕の友達だと言う人。僕の会社の同僚だと言う人。僕の親だと泣いた夫婦。彼らには申し訳ないけれど、誰一人として覚えている人は居なかった。もし見知らぬ他人が「お前の親だ」と言っても、僕には信用することしか出来ない。と言うのも、僕の部屋は他人に関する情報が徹底的に排除されていたからだ。電話帳はおろか、名刺一つ出てこない。あるのは学生時代のアルバムと、数枚の写真だけ。以前の僕はとても記憶力が良かったのだろうか?一度であった人の名前や電話番号を正確に覚えられたのだろうか?もしそうだとしたら、多分僕の脳がパンクしてしまったに違いない。何て言ったって、人は数え切れないくらいの他人と出会うのだから。
結局、眼が覚めてから一月も経っているのに、未だに僕の記憶は戻らないままだ。今では「このままでもいいかな」と思い始めている。彼女の言ったように、思い出なんてこれから創ればいいのだ。そう、思っていた。
(つづく)
あたしは嘘をついている。
「彼が事故を起した」と聞いたとき、あたしは彼の無事を祈ると同時に、咄嗟に最低で最悪な事を願ってしまった。彼の恋人が死んでしまえばいい、と。
その時は、本気でそう思っていた。彼を自分だけのものにしたかった。彼と幸せそうにしているあの恋人が、憎くて、恨めしくて、たまらなかった。今思えばなんて自分勝手な願いだったろう。あたしがこんな事を願わなければ、彼女は助かったかもしれないのに。
そう、その最低で最悪な願いは、叶ってしまった。
事故が起きた時、助手席に乗っていた彼女はシートベルトをしていなかった所為でフロントガラスを突き破って即死したのに、彼の方は幸運にも少し頭を打っただけで、「体は」全くと言っていいほど無傷だった。
だけど、彼は記憶の大部分を失ってしまった。
あたしが、まだ目を覚まさない彼のお見舞いに行った時だ。「うっ…」と彼がうめき声を上げたかと思うと、ゆっくりと彼の両目が開き、私の顔を捉えた。そして囁く様に、彼は私に向かってこう言った。
「…あなたは…誰ですか?」
…気が遠くなるのを感じた。
彼は自分の名前も、住所も、電話番号もしっかりと言うことが出来た。でも、何故か彼と関わったことのある人に関する記憶だけが消えてしまっていた。そう、あの死んだ彼女の事までも。
そこで、あたしは彼女を騙る事にした。「本当に最低最悪の女ね」と頭の中のあたしが囁くのを無視して、訝しげな顔をする彼に、精一杯の演技でこう言った。
「あたし、あなたの恋人よ?忘れちゃったの?」
もう、特に良心の呵責は無かった。彼女は死んでしまったし、彼は記憶を失ってしまった。彼を支えてあげる誰かが必要なのだ。…ただ一言「もう戻れないね」と頭の中で呟いた。
そうして、嘘と言う毛糸で編んだセーターの様な生活が始まった。あたしは彼を優しくいたわり、冷え切った心を暖める。でも、決して「ほつれ」を見つけられてはいけない。彼の両親や、会社の同僚、友人たちに、土下座までして「死んだ彼女の事は黙っていて欲しい」とお願いをした。彼の両親に許可を貰い、彼の部屋に置いてあったありとあらゆる彼の知人に関する物も全て捨てた。
この嘘を見破られたとき、きっと彼はあたしを許さないだろう。あたしがこんな醜くて汚い女だなんて知られたら。万が一彼が許してくれたとしても、あたし自身が耐えることが出来ない。
そうやってあたしは次々と嘘を重ねていった。
重ねれば重ねる程あたしの心に重くのしかかり、そして脆くなる事も知らずに。
(つづく)
「ねえ、次あれ乗ろうよ!」
あの子は彼の手を引いて歩く。彼は少し困惑顔で、だけどまんざらでもなさそうについて行く。私はその様子をただ眺めているだけだ。
名残惜しいと言うわけじゃない。もうとっくに諦めはついている。仕方ないのだ。何せ、私はもう彼に触れることも、話すことも出来ないのだから。そう、一月半前のあの日から。
「次は何処行こっか?」
あの子が彼の手を引き、私はその後ろを歩く。何だろう、諦めたはずなのに。
胸が、痛い。
もしあの事故が無かったら、ここで私は彼の手を引いていたのだろうか?いや、もうこんな事を考えるのはよそう。私がこの世界に居られる時間は、もう残り少ないのだから。
あの事故が起きた時、私は私の身体を見下ろしていた。直感で「ああ、死んだんだな」と思った。生きている時は、死ねばすぐ天国なり地獄なりに行くものだと思っていたけれど、実際は相当違った。死んだ人は、死んだ後も暫くはこの世に居ることが出来る。そして、四十五日の期限を過ぎるか、「もういい」と思えば、新しい命に生まれ変わるための過程に入る。俗に言う輪廻転生というやつだ。また、死んだ人は生きている人にある程度の影響を与えることが出来る。例えば、記憶を消したりとかだ。
私は色々迷ったけれど、彼の記憶から他人に関する記憶を消すことにした。彼はとても優しかった。でも、その優しさ故に、きっと「私を殺してしまった」と自分を責めてしまうだろう。もしかしたら、私を追って自殺してしまうかも知れない。それだけは耐えられなかった。
人の繋がりと言うものは、思っているよりもずっと強く、意外だ。例え私の事だけの記憶を消しても、きっと記憶の何処かに矛盾が生まれる。そこから記憶が戻ってしまうかもしれない。完全に消せるわけでは無いのだ。だから、彼には少し気の毒だけれど、全ての他人に関する記憶を消させてもらった。
そして記憶を消すと同時に、少し言い方は悪いけれど、あの子を利用させてもらった。あの子が彼のことを好きなのは知っていたし、あの子なら彼を幸せに出来ると思ったからだ。と言っても、ちょっぴりあの子の意思に干渉して、彼もあの子の事を好きになるように仕向けただけなのだけど。…もしかしたら放って置いてもそうなったかも知れない。まあ、結果オーライと言うやつだ。
そんな紆余曲折を経て、今あの二人はデートの真っ最中。元彼女であり元ライバルが見ていると言うのに、二人とものんきなものだ。
さて、私の役目も終わりだろう。私は彼に出会って、いっぱい幸せを貰った。ちっともお返し出来なかったけど、これで少しは返せたかな。彼はもう私の事を覚えてないけど、私が彼の事をしっかり覚えてる。決して忘れはしない。決して。
「おい、そろそろ時間だ」
後ろから声をかけられ、私はゆっくりと振り向く。そこには、まるで喪服の様な真っ黒な背広を着た男が立っている。
「分かってる。最後のお別れをしてただけ」
男は「へっ」と鼻で笑う。
「ああ、そうだな。あの男が何度生まれ変わろうと、お前とは二度と逢うことは無いからな」
男はそう言うと、「こっちへ来い」とでも言うように顎をしゃくり、歩いてゆく。私はその後をゆっくりとついて行く。
―あの男が何度生まれ変わろうと、お前とは二度と逢うことは無いからな。
男の言っていたことが脳裏に蘇る。そうだ、私はもう彼と逢うことは無い。
―死者が生者に干渉してはならない。もしこれを破ったら、お前は地獄行きだ。
私が死んですぐにこの男に言われた言葉。私はこれを破った。
「着いたぞ」
男は、一見普通のドアの前で立ち止まる。ただ、そのドアはまるで「どこでもドア」のように、道のど真ん中に立っていた。
「……」
私はドアノブに手をかけ、少し考えた後に男に話し掛けた。
「ねえ」
「何だ。今更嫌です、は許されんぞ」
「違うよ。…私のしたことって、彼にとって良かったのかな」
「地獄の水先案内人に訊く事じゃあ無いな」
「…それも、そうだわ。じゃ、行くね」
「待て」
「何?」
「俺の本当の仕事は蟲の知らせ係、でな。今日はたまたまこの仕事をやってるが、普段は人間に遠まわしに想いを伝える仕事をしている」
「それで?」
「何か言い残すことは無いか、と訊いている」
「……そうね……」
*
「うーん次は何にしようかなあ…ね、何に乗りたい?」
「……」
「ちょっと、話し聞いてる?」
「え、あ、ごめん。ボーっとしてた」
「もう…なーに見てたの?他の女?」
「いや…ありがとうって言われた気がして」
「ありがとう?誰に?」
「思い出せないけど…とても大事な人だった気がする」
「…あの人が見てるのかもね」
「あの人って?」
「ううん、何でもない!さ、次いこー次!」