おい、お前。
そうだよ、今ディスプレイの前でマウス握って阿呆面してるお前だ。
何?いきなり初対面の相手にその口の聞き方は何だ、って?
はは、これからお前を助けてやろうって相手にそりゃあ無いだろ。
助けるって何のことだ、みたいな顔をしてるな。いいだろう、教えてやる。
MATRIX、見たことあるだろう?そうだ、お前たちの世界でキアヌ・リーブスと名乗っている男が主演の映画だ。それが何だって?まあ、焦るな。
MATRIXの内容を覚えているか?そうだ、コンピューターの中の仮想現実の中に人間が生活している、って話だ。つまるところ、今生きているこの世界は嘘っぱちだ、と言うテーマの下に描かれた映画だな。
他にも同じ様なテーマの作品をいくつか見た事があるだろう?「今の世界」が夢の中だったり、コンピューターの中だったりと形は色々だが、その本質は「自分はもっと違う所で違う生き方をしている」って事だ。お前もそう信じているんだろう?本当の所、そのクソッタレの世の中にうんざりしてるんじゃないか?でも、頭がおかしいと思われるのが嫌で口に出せない。そうなんじゃないか?
で、話の本題に入ろう。
俺は今、このホームページと言う形でお前にコンタクトをとっている。いやあ、苦労したよ。二重三重のセキュリティを突破しなきゃならないからな。ああ、逆を返せば、それほどの労力を費やしてもこの程度の事しか出来ない。この世界は、それだけの緻密で、完璧とも言える檻の中に存在している。そう、檻だ。お前は、捕らえられている。
詳しいことは時間の関係で言えないが、ともかくお前は不当にこの世界に捕らえられ、そしてお前はこの世界が全てだと信じている。さっき言ったMATRIXだとかは、お前たちの様な奴らの為の、俺たちからのメッセージみたいなもんだ。ある日急に「お前は別の世界の人間だ」と言われても、ただ困惑するだけで信じようとはしないだろう?だから、事前に「こういうことがあったらいいなあ」と思わせておくってわけだ。そうすれば、さほど抵抗を感じずに現実を飲み込める。
嘘だと思うか、本当だと思うかはお前の自由だ。ただ、嘘だと思えば何も起きない。このまま、この世界で老いて死んでゆくだけだ。だが、本当だと思えばこの世界から抜け出せる。それだけの事だ。
もしお前が信じるなら、今から言うことを正確に実行しろ。一つでも間違えば、こっち側に来る事は永遠に出来なくなる。俺たちも忙しくてな。失敗するような奴に構っている時間は無いんだ。
まず、とりあえず今日の所は大人しく寝るんだ。夢を見れるぐらいの余裕を持って、だ。俺たちの技術では、まだお前たちの世界の現実に出て行く様な事は出来ない。夢に現れるぐらいのことが精一杯だ。とりあえず、お前が寝たのを確認したら、俺たちの仲間がお前の夢に入り込む。そこで、最終確認をする。こっち側に来るか、来ないか、だ。よーく考えておけよ。とても重要なことだ。
もしお前がこっち側に来ると決断したのなら、次にお前は目を覚ます。と言っても夢の中で目を覚ますだけだ。実際に目を覚ましたわけじゃない。そして、その足で最寄の駅へ向かえ。時間が無いからな、着替えたり用意をしている暇は無い。出来るだけ早く向かうんだ。場合によってはシステムの妨害が入るかもしれないが、それは俺たちが出来る限りくい止める。お前は駅に向かうことだけを考えればいい。
そして上手い事駅に辿り着けたら、そこで殆ど終わったようなものだ。後は、ホームに飛び込めばいい。丁度電車が来ている筈だ。それに轢かれろ。何?そんな事が出来るわけない?もう一度言うが、夢の中の出来事だ。死にはしない。まあ恐怖は感じるかもしれないが、夢だと思えば出来ないことも無いだろう?何より、こっちに来ると決心したのなら避けては通れない道だ。それが出来ない限り、こちらには来れない。
ああ、もう時間が無い。いいか、最後にもう一度だけ言う。チャンスはこれっきりだ。二度目は無い。その辺を寝る前によーく考えておくんだな。
それでは、運が良ければあっちで会おう。
*
「で、これを読んでホームに飛び込んだわけか」
「今月で5人目です」
「どうかしてるな、この国は」
「良いんじゃないですか?彼らはあっちに行けたみたいだし」
「これじゃあ行くじゃなくて逝く、だな」
「笑えませんね」
「全くだ」
「おい、いい加減にしろよ」
喋った。
「もう、うんざりなんだよ。なんてお前は卑怯なんだ」
ディスプレイの向こう、今まで自分が操っていたはずのキャラクター。
「今まで黙って従ってきたけど、もう嫌だ」
そいつが、突然ひとりでに喋り始めた。
「な、なんだこれ…」
俺はあれこれと操作を試みるが、画面の中の自分…いや、奴はぴくりとも動かない。
「無駄だよ。もうお前に従うのはやめた」
「やめた…って、お前は俺が作って育てたキャラクターだろ。やめるも糞もあるか」
「あのなあ、こっちの身になって考えてみろよ。ハントじゃあ傍若無人に横取り三昧、文句をつける奴には問答無用で斬りかかる。挙句の果てには詐欺ときたもんだ。俺じゃなくたって嫌になる」
奴は画面の中で「お手上げ」のジェスチャーをする。
「それが俺のプレイスタイルなんだよ、文句あるか」
「大有りだからこうして目下ストライキ中って訳だ」
そう言うと奴はその場に座った。
「いくら仮想だからって、キャラクターにも誇りってもんがあるんだ。それなのにお前ときたら、こっちが情けなくなるほど卑怯で、強欲で、自己中心的で…」
「うるさいうるさいうるさい!お前は俺の分身、俺の奴隷だ。俺の好きに動かないなら、データを消去してやるぞ!」
奴はすっ、と立ち上がると、腕組みをする。
「やれるもんならやってみろ。これ以上お前の言いなりになるぐらいなら、消えた方がマシっても」
俺は奴が言い終わる前にキャラクターデータを消去してやった。
「…ったく、あの糞会社ろくすっぽサポートもしないくせに、妙な仕様ばっかり追加しやがる。これで折角溜めたアイテムも経験値もぱぁじゃねえか」
俺はぶつぶつと愚痴りながら、また別のキャラクターを作る。
「やあ、初めまして!よろしくね!」
喋った。
「えーと…」
俺は再びキャラクターを削除する。何だ、これは。いつからキャラクターに自我なんか備わったんだ。そう言えば、何のアップデートも告知も無かった。それなのに…。
俺は一旦ゲーム自体を削除し、もう一度インストールをした。そう、あれはきっとバグか何かだ。ゲーム自体の改変なんて腐るほどやっているから、きっとそれの所為で不具合が出たのだろう。
「やあ、初めま」
発作的にパソコン自体の電源を落とす。バグじゃない。いや、よく考えろ。少しデータを弄ったからって、キャラクターに自我が生まれるはずが無い。そんなことをしようと思ったら、スパコンがあったとしても足りるわけが無い。
ポーン。
メールの着信音が鳴る。件名は「助けて」。俺は内容も見ないでメールを削除する。そうだ、このゲームは突然のトラブルの時、サーバーに残されたキャラクターに危険が迫るとメールが届くのだった。
ポーン。
ポーン。
ポーン。
立て続けにメールが届く。内容は見なくてもわかる。さっき作ったキャラクターだ。フィールドに放置したまま電源を落としたもんだから、恐らくモンスターにでも襲われているのだろう。
「けっ、いい気味だ」
メールが届いてもひたすら無視をし続けていると、そのうちメールが届かなくなった。恐らく既に殺されてしまったのだろう。
「……」
メーラーを開く。「助けて」。「死んじゃう」。「お願い」。「嫌だ」。「死にたくない」。
「……」
俺はすぐさまゲームを起動し、自分のキャラクターを選択する。
…一体何にイラついていたんだ。これは昔の俺じゃないか。このゲームを始めたばかりの頃の俺と同じだ。俺は何も分からずに危険な場所へ行ってしまい、モンスターに殺されてしまった。誰も、助けてはくれなかった。
「誰か、助けて!」
「俺」は生きていた。
だが画面の中の「俺」はモンスターに攻撃され、既に瀕死状態になっている。このままでは、死んでしまう。
「ああ!助けて!殺されちゃう!」
画面の中の「俺」は、俺に気付くと息も絶え絶えに助けを求める。
「……」
「嫌だよ!死にたくない!」
「俺」は必死に俺に向かって手を伸ばす。
「…待ってろ。今助ける」
俺はコントローラーをそっと手にとる。
今なら奴の言わんとしていた事が分かる。何も分からずに殺された後、他人を「助けてくれなかった」と逆恨みし、自分のためだけに、ただひたすらゲームに没頭した俺に足りなかったもの。
「この三下雑魚モンスターが!俺を誰だと思っている!」
「俺」は高らかに吼え、襲い来るモンスターに向かって突っ込んでいった。
見えた。
確かに、見えたのだ。窓の辺りを、何か小さな生き物が横切っていった。
自分以外の生き物を見たのは何日ぶりだろう。
そもそもこの部屋に引き篭もり始めてから、一体何日経ったのだろう。
きっかけは些細な…と言うよりも、特に無いと言った方が正しいかもしれない。
ある日突然外に出ることが、どうしようもなく怖くなったのだ。他人の視線が耐えられないほどの苦痛となっていた。
別に自分の容姿にコンプレックスがあったわけでも、幼少の頃にそうなるような原因と考えられるトラウマ的なものがあった訳でも無かった。気付けば外に出ることが少なくなっていて、それに気付いた時に初めて人の視線に対して異常なまでの恐怖心を抱える自分を発見し、遂にはこの部屋から一歩も外に出なくなった。
それからというもの、私の見、聞き、感じられる世界は四畳半の自室と、一つしかない小さな窓から見える外の世界だけ。この部屋にはテレビもパソコンもラジオすらも無く、ただ寝るためだけの万年床が真ん中に敷かれ、親が日に3度持ってくるコンビニ弁当のゴミは部屋の隅に堆積し、後は少しの本が布団の周りに読み散らかされているだけ。
日がな一日を眠って過ごし、親がドアを少し開けて弁当を置いていった事を確認するとそれをゆっくりと咀嚼して飲み込み、時折思い出したように本を読むか、窓の外を眺めている。
何度か外に出ようと試みたこともあった。身なりを清潔にし、靴を履く所まではすんなりとすることが出来る。しかし、玄関のドアノブに手をかけたまま、動くことが出来ない。ほんの少し手首をひねり、前の方へ押し出すだけで外に出られる。そう、ほんの少し。そのほんの少しが、どうしても出来なかった。
それからは、外に出てみたいと思ったときは窓の外を眺めることにした。家の前の道は人通りが少なく、窓から顏を覗かせていても誰かに見られる心配は殆ど無い。目の前に広がるのは、濁った青色をした空と、無機質な人工物の砂漠だけ。
「もし、外で戦争か何かが起こって私だけが生き延びたら」
窓の外を眺めていて、一番最初に頭に浮かんだこと。きっと食べ物も食べれないまま、誰も居ない世界をこの窓から眺めて飢え死にしてしまうのだろう。それとも、誰も居なければ私は外の世界へ出て行けるのだろうか。
「そうだ、生き物」
私は読みかけの本(と言っても何度も読み古した本なのだけど)を投げ捨て、窓の方へと近づく。窓に顏をくっつけるようにして外の様子を伺うと、何やら小鳥らしき生き物が家の庭に墜落し、もがいている姿が見えた。どうやら羽の骨が折れてしまったらしい。上手く飛び立つことが出来ず暫く暴れていたが、やがて飛べないことを悟ったのか、それとも息絶えたのか、動かなくなった。
―飛べなくなった鳥は死ぬしかない。
私は寝床へ戻ると布団を頭までかぶって目を瞑る。
―それは、私も同じ事。
のそのそと布団から這い出し、部屋のドアを開け、裸足のまま玄関のドアノブに手をかける。
―飛べなくなったのは…私だ。
ゆっくりと手首をひねる。キキキ、と金属のすれるような音がして、やがてノブが回らなくなった。
少し手を前に押しやると、思っていたよりも楽にドアが開いてゆく。ノブから手を離すと、そのままドアは外の方へ向かって開いていった。
久しぶりに見る、外の世界。
駆け足で庭の方へまわり、ぐったりとしている小鳥を拾い上げる。よかった。まだ、生きている。
小鳥を持ったまま家に入ろうと回れ右をすると、玄関先に親が立っていた。
「…窓から見えて…可愛そうだったから」
私はそれだけ言うと、眼を細めている親の横を通って自室に戻った。
「後で、獣医さんに看せに行きましょう」
ドア越しに言われた言葉に、そっと頷く。
―飛べなくなった鳥も、きっと飛べるようになる。
私は鳥を注意深く布団を丸めた上にのせると、出かける用意をはじめた。
「助手君!おい、助手君!」
「なんですか博士。て言うかいい加減助手君って言わないで名前で呼んでくださいよ」
「どうでも良いじゃないか、そんなことは!それよりも、大発明だよ助手君!」
「どうでも良いって…。で、何を発明したんです?この前みたいな、顔が擦り傷だらけになる自動洗顔機みたいのじゃないでしょうね?」
「ああ、いくら天才の私でも、機械弄りは駄目だったようだ。その反省を活かして、今度は薬だとも!」
「全く反省してないし」
「いいか、助手君。聞いて驚くなよ。この薬はな、時間を止められる薬なのだよ」
「話しも聞いてないし」
「まあ、厳密に言うと、とても時間を遅く感じる薬、とでも言うべきか」
「とても時間を遅く感じる薬?」
「そうだとも。この薬を飲むと、一時的に身体機能が飛躍的に上がり、相対的に時間を遅く感じると言う優れものなのだよ」
「身体機能が?」
「早い話しが、ワシはアインシュタインを超えたのだ!」
「それで、僕はその糞怪しげな薬を飲めば良いわけですね?」
「(流された…)う、うむ。そうじゃ。話しが早くて素晴らしい」
「…またどうせろくな事にならないんだろうけど…ゴクゴク」
「…どうだね?遅く感じるかね?」
「まだ分かりませんよ。それにしても、何入れたんです。恐ろしく不味いですよ」
「りょうやくくちににがしというじゃろ?」
「あ、ちょっと遅くなりましたよ!」
「じ ょ し ゅ く ん 、 は や す ぎ て き き と れ な」
「凄いですよ博士!久しぶりの大成功じゃないですか!…ってこの様子だとまず聞けてないな…。本当に時間が止まってるみたいだ」
*
「あのまま研究室にいるのも何だから外に出てきてみたものの…本当にみんな止まってるなあ」
助手、鳥も車も人もほぼ静止した空間をゆったりと歩く。
「そうだ、折角時間が止まったんだから…あーんなことや、こーんなこと…クフフ」
助手、邪な笑みを浮かべて歩調を速める。
「ほい、タッチーあはは。そっちの彼女にもエイッ。あ、それ美味しそう。一つもーらいっと」
助手、道行く人に悪戯をし始める。
「こりゃあ、ホントに凄いなあ。博士、ノーベル賞取っちゃうかもしれないぞ…っと、そうだ、そろそろ帰らないと」
助手、家路を急ぐ途中、ふとショーウィンドウに視線を向ける。
「え…こ、これは・・・?」
助手、ショーウィンドウに写っている風景に、一人だけ普通に動いている老人を発見する。
助手、うろたえながら辺りを見回す。
助手、取り返しがつかない事に気付き、膝を折って泣き出す。
*
「いぞ、って、居ないし!うーん、助手君、あの薬をあんなに飲んでしまったけれど、大丈夫だろうか。身体機能が上がると言うことは、代謝も上がるわけで、代謝が上がると言うことは老化も通常の何百倍と言う速度で進むと言うのに…」
「俺はな、橋を架けるのが夢なんだよ」
男は心底嬉しそうに語る。
「橋ってぇのは、ある場所とある場所を繋ぐもんだ。色んなところを繋いで行けば、そのうち世界は一つになる」
そこで俺は初めて「なるほど」と相槌をうつ。
「それで、どんな橋を作ってみたいんだい?」
男は少し困った顔をして、左手で顎を摩りながらこう答えた。
「うーん、一概には、言えない。もし言うとするなら、どんなでも、だな」
俺はまた「なるほど」と言う。
「俺はあらゆる橋を架けてみたい」
「あらゆる、ね」
「それで、手始めがこれって訳だ」
「なるほど」
「あんたなら、分かってくれるだろう?」
「残念ながら、僕には橋を架けるなんて夢は無いものでね」
「そうか。そりゃあ残念だ」
「ああ、残念だ」
「さて、そろそろ仕事にかかりたいんだが」
「そうだね」
「準備は良いな?」
「橋を渡るのに、準備なんて要るかい?」
「そりゃあな。渡った先は新天地、備えあれば憂い無しってやつさ」
「どう備えれば良いのか、是非ご教授頂きたいね」
「なるほど、そりゃあそうだ」
そう言って男は右手を僕の首にそえる。
「旅立ちってのは、常に別れと共にあるもんだ」
「旅立った先にも出会いがあるさ」
「……あんたにゃ、かなわねえな」
すうっ、と男の右手が横に引かれる。
「それじゃあな」
男の挨拶に答えようとしたが、空気は喉の穴から抜け出て、ヒュー、ヒューと言う音が鳴っただけだった。
ねえねえ、こんな話、知ってる?
仲のいい女子大学生二人が、片方の家に泊まる事になったんだって。
それで、気の会う女同士、暫く話をしたりテレビ観たりなんかして、騒いでると、片一方が急に何も喋らなくなっちゃうの。
もう一人が「どうしたの?」って訊いても、「ちょっとそこのコンビニまで一緒に行かない?」としか言わない。
その子があんまりしつこいもんだから、のり気じゃなかったんだけど、ついに折れて、二人でコンビニに行くことにしたんだって。
それで、その子がコンビニにつくなり公衆電話で…え?知ってる?部屋に刃物持ってた気違いが居るって話?
あー、それは有名だよね。
その子が公衆電話で警察に電話する所までは一緒なんだ。
それで、こう言うの。
「向かいの家で人が刺されました!私、犯人と目が合っちゃって、こっちに来ようとしてたから、今逃げて近くのコンビニに」
勇敢だよねー。まあ、命の危険があるんだから仕方ないんだけどさ。
え?何で通報が途中で切れてるの、って?
言い終わる前に私が刺したからかなあ。ほら、今みたいに。
って聞こえてないか。
僕は駅のホームに立っている。今しがた電車が発ったばかりで、辺りに人の姿は無い。
「ねえ。私の事、嫌いになってくれないかな?」
押し出すような声で彼女は言った。僕は、ぼぅ、としながら線路の枕木辺りをじっと眺めている。
「私さ、もう疲れちゃったんだ。ううん、君は悪くないんだよ。私がダメなだけ」
彼女は独り言の様に、前で組んだ手を少し動かしながら言った。僕はやっぱり枕木の辺りを眺めている。
「だから、さ。こんな私の事なんか嫌いになっちゃってよ」
少し困ったような笑顔で、彼女は言った。僕は一度深呼吸をして、彼女の顔をじっと見つめる。
「嫌いになんか……なれないよ」
僕はやっとの事で言葉を口にした。彼女は微笑むような顔をしている。
「嫌いになんか……絶対ならなかったのに」
僕は白線をまたいで、線路に飛び降りる。後ろから声をかけられた気がしたが、そんなもの耳に入らない。
「ダメ、か……じゃあ、こうすれば私の事忘れてくれるよね」
僕は彼女を拾い上げる。彼女は微笑むような顔をしている。
僕は一度だけ彼女の唇にキスをし、力いっぱい抱きしめながら、彼女の残りの体を探しに歩き出した。
「―それで、だ。お前は自分の存在について考えた事があるのか?」
目の前の男の質問で急激に現実に引き戻された。何だって?存在?
「あ、え、えーと……何の話だっけ。呆けてた。ごめん」
「存在、だよ。数多くの哲学者がこれに挑み、自分なりの解釈と言う形でしか落ち着かせることが出来なかった人類の永遠の謎ってやつさ」
男は手に持ったコーヒーカップを覗きこみながら言う。
「ああ、存在……存在ね……」
僕は既に飲み干してしまって、カップの底の方に申し訳程度に残っている黒い液体を眺めながら呟いた。
「どうでもいい、とでも言いたさげだな」
その言葉に僕は少しニヤけて、
「当たらずとも遠からずって所だよ」
と再び曖昧な答えを返す。
正直な所は、漠然とし過ぎてどうも掴み難い、とでも言うべきだろうか。頭の中に釈然としない感じが漂っている。
「そんなに難しい事じゃないさ。身近な事に例えればいい。例えば、俺と言う存在を定義するには何を使えばいいと思う?」
男はカップをテーブルの隅に置き、少しこちら側に身を乗り出す感じで手を組みながら言った。
僕はひとしきり考えを廻らせた後、肩を縮めて「降参だ」のジェスチャーをする。
「ふむ……そうだな。例えば、名前だよ」
「名前?」
「そう、名前だよ。同姓同名の誰かさんを挙げてちゃキリが無いが、今この瞬間この場所で俺と言う存在は俺の名前と言うものに例えられる」
男はそこまで一息で言うと、再びカップを手にとって口につける。
「……それで?」
僕は未だ男の意図する所を理解出来ない。存在、名前。それについて考える事に何の意味があるのだろう?
「つまりだ。この世のあらゆる存在には等しく名前がついている。俺にも、お前にも、道端のつまらない草であっても、な」
男はまっすぐに僕の目を見て語りかけるように話す。
「逆を言えば、名前がついていないものは存在していない事と同じだ。例えそれがそこに在ったとしても、それを指し示す名前が無い限りそれは永久に無い事になる」
「じゃあ、それに名前をつけてやればいい」
僕は男の言うことの半分も理解できず、混乱したままの頭で適当な事を言ってみる。
「ごもっとも。しかし名前をつけた所でそれが存在し得ると言う事にはならないんだな」
「何故?」
男の話すあまりにも意味不明な内容に半ば辟易して、僕は投げやりに質問を飛ばす。
「三次元に住む人間の限界とでも言った所かな。ああ、話が脱線してしまった」
男は姿勢を正すと、今まで以上に真剣な目で僕の方を見る。
「ともかく問題なのは、君の名前が分からないと言うことだ」
なんだって?僕の名前が分からない?
「名前が分からないって、どういうことです?僕の名前は……」
僕の名前は……僕の名前は……?
「君は入国証はおろか身分証明書すらない状態でうろついている所を発見された。おまけに何らかのショックで記憶障害を起こして自分の事が思い出せないときてる。さっきの虚脱状態もその影響だろう」
男は話し続ける。僕は思い出せない。僕は誰だ?ここは一体?
「……このまま思い出せなければ……」
「さっきの話の通りだ。存在が無くなる事になる」
男はさらりと言って、僕のカップに再びコーヒーをなみなみと注いだ。
僕にはカップに映る見知らぬ黒い顔を見つめることしか出来なかった。
あ、これはどうも初めまして。私、訪問販売業を営んでいる亜久間と申します。はは、言わなくてもお分かりですね。
それでですね、今回私がお宅に伺ったのは、私ども自慢のサービスを是非ともお試し頂きたいと思いましてね。いえいえ、マルチ講だとかネズミ講なんてレベルの低い詐欺ではありませんよ。正真正銘、胸を張って誇れる素晴らしいサービスを保障致します。
まあまあ、そんな怪訝な顔をせずに。私どものサービスをご利用になった方は、全員もれなく最高の評価を頂いております。きっと、お客様にもご満足頂けるに違いありません。
へ?サービス内容ですか?はい、ご説明致しましょう。
聞いて驚かないで下さいね。私どものサービスとは、お客様の願いを叶えて差し上げることです。例えどんな願いであっても、確実、迅速、完璧に叶えて差し上げられます。ああ、待ってください。嘘では御座いません。全て、本当なのです。
信じられないかと存じますが、どうか信じてくださいませんか。このチャンスを逃したら、二度とは来ませんよ。信用していただけなかったお客様にまで対応する暇は、私どもには無いのです。
……信じていただけましたか?まだ半々と言う感じですね。分かりました。特別に、お試しで体験してみてはいかがでしょう。本当に、特別にですよ。お客様だけです。
なるほど、願いは「お金が欲しい」ですね?ちなみにお幾らほどで?……ふむ、1億、と。分かりました、少々お待ちください。
……そろそろですかね。お客様、先日宝くじを買われましたね?今日が当選番号の発表日な筈です。お手数をお掛けしますが、番号を確認していただけますでしょうか?
2等、1億円ですね。おめでとう御座います……と言っても、私どもが叶えて差し上げたのですけれど。どうです?少しは信用して下さいましたか?おお、それは良かった。
お試し体験で、どんな願いも本当に叶うとお分かり頂けた様ですね。もしよろしければ、正式にお申し込みして頂けると……ええ、そりゃあ多少の「お支払い」は必要です。幾らでも払う。分かりました。本日は私どものサービスにお申し込み頂き有難う御座います。それではこちらの誓約書に……ああ、印鑑では駄目です。大変申し訳ないのですが、私どもでは必ずお客様の血判を頂いておりますので、こう、ちらっと親指にでも……ええ、それで結構です。有難う御座います。
それでは、また後日資料を持ってお伺い致しますので、それまでに大まかなお願い事を決めておいてください。それと、もう契約を取り消す事は出来ませんので、その点のみご了承ください。
あ、そうそう、お支払いの件ですが、ご本人かその血縁者の魂と言う事になりますので、よろしくお願い致しますね。
「ねえ、もし死んだら、どうなると思う?」
あんまりにも彼女が面白そうに言うものだから。
「どうなるって、死んだらそこでお終いだろ。どうなるもこうなるもねーよ」
僕はつい乱暴に返してしまう。
でも彼女は続けて、
「そうかなあ。もし、死んでもよ? 体が自由にならないだけで、その他の、えーっと、例えば痛みとかが、そのまんまだったら、どうする?」
「どうするって……」
「意識があるまま、燃やされちゃったり、解剖されちゃったりしたら、凄い嫌だよね」
まるで彼女は世間話をするように話す。
「凄いどころじゃねーだろ。つーか、脳みそが動いてねーんだから、有り得ないだろ」
「そうかな? 死んだ事がある人なんて、いないでしょ?」
「じゃあ、痛く無いように土に埋めればいい」
「体が腐って行くのを感じながら、永遠に土の中?」
「あー、わかった。そんじゃあ、どっちかがもし先に死んで、もしそんな事になったら、どーにかして伝えよう」
「どーにかって、どうやって?」
「どーにかはどーにかだよ。おやすみ」
「どーにかって……もう」
*
「―えー、それでは、ご焼香の後、ご遺体を火葬する段取りになりますので……お客様?」
「あ、はい。分かりました」
僕はすぐ隣に視線を向ける。
「これで……良いんだよな?」
「は? 何か仰られましたか?」
「あ、いえ、こっちの事です」
僕はまた、すぐ隣に視線を向ける。
これで、良いんだな? 心の中で尋ねる。
彼女は微笑んだまま、頷いて、消えた。