www.progressistance.org

be shot a head : 05

#41

「ここは……」

確かに見覚えがあった。モノトーンのデザイン、不道徳なタイトル、そして、何より読んだ後に最悪の気分にさせてくれる文章。……見間違えているはずがない。かつて、自分がこれほどまでに衝撃を受け、心底気に入ったサイトはここをおいて他に無いからだ。

「そんな、確かに閉鎖した筈だったのに」

興奮の余り、ついつい癖の独り言を発してしまう。が、そんな事はもう気に掛からない。何せ、またここの文章が読めるのだ。どうやら復活直後に見つけた所からするに、もしかするとこれは運命なのかもしれない。僕もまた、このサイトに魅せられてしまったのだろう。

とりあえず未読のログを読み漁り、そして、トップページの一番新しい更新に目を通す。

最新は#41。そう、このサイトは文章ひとつひとつに陳腐なタイトルなんてつけはしない。ログだって個別に分けるような事はせず、10ナンバー区切りで乱雑に置かれているのみ。こういうスタイルも、僕はとてもとても気に入っているのだ。

「……おや?」

このサイトの特徴は、まるで語りかけるかのような言葉使いが特徴だ。例えば、喫茶店で隣の席の会話を盗み聞きしているような、そんな背徳感をも感じさせるような馴れ馴れしい文体が面白さの一つなのだが……。

「これは……まるで……」

まるで、何だと言うのだろう。言葉に出してみるものの、その先が上手く繋がらない。知らず知らずの内に、左手を口元に持ってきてしまう。悪寒が酷い。

「まるで、視られている……?」

そうだ。今までの話は決定的な所で非現実、フィクションの中だったはずだ。でも、これじゃあ余りにも……。

僕はゆっくりとマウスホイールを回し、スクロールして行く。このサイトの文章は、殆どがろくな終り方をしない。確実に「誰か」が死ぬ。「誰か」。今まで他人であった「誰か」が、今、限りなく近い所に居る気がする。

何だ? 何なんだこれは? 上手く出来た「お話」なのか? それとも……?

全身から冷や汗が吹き出している。僕の思考を丸写しにしたようなこの文章は、一体何なんだ! ほら、今だってそうだ。おかしい。考える端からスクロールバーが短くなってゆく。目を逸らす事が出来ない。右手は狂ったようにホイールを回し続けている。
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても
回しても

終わらせないよ。

#42

目の前で、手も触れられていないティースプーンがぐにゃり、とひん曲がる。まるで、「初めからそう作られていた」様に。

「これで私が神だと言う事が、少しは信用できたかい?」

男は礼儀正しそうに、しかし少し皮肉を含めた笑顔で言う。

「まあ、最近はこの世界もイリュージョンだとか……ああ、奇術、なんて呼び方もするそうだが、小手先のトリックでこんな事をしてみせる輩も居るみたいだけれどね」

そう言って男はティースプーンを手に取り、ミルクティーを2、3回かき回して、受け皿に戻したときには、もう元通りに戻ってしまっている。

「え、えーと」

「これでも信用ならないと言うなら、君のこれまでの生い立ちを事細かに話して聴かせたっていい。例えば、君が始めて恋をした時の事だとか、その人の事を想って自慰に耽った事だとかをね。……と言っても、今から話したのでは、ここの暦で20数年かかってしまうなあ」

「分りました、分りましたから。それで、えーと、神様? はどうして僕の所なんかにいらしたのです?」

「いい質問だ」

自称「神」は、ミルクティーを手に取り口に運ぶ。

「ん、いい茶葉を使っている。一見寂れた喫茶店だが、どうだね、まるで本格志向じゃないか。なかなか、こっちも捨てたもんじゃないな」

僕がどうしたものかまごついていると、神とやらは思い出したような顔をして言った。

「ああ、そうだったね。何だったか…そう、目的だ」

男は周りに目配せをしてから、囁くように言った。

「……実はね、後継者を探しているのだよ」

「は?」

後継者、と言った。それは「神」のだろうか?

「うん、困惑するのはようく分る。君にはまだ、信じてもらえていない様だしね。だけれどあまり悠長な事はやってられないのだよ。私の任期ももう近い。そろそろ本腰を入れて、私の代わりに成り得る人間を探さなくてはならない」

これは少々ヤバいのではないだろうか。この男、相当キてる。

「あ、ええと、その、僕、ちょっとこの後用事が……」

「ん、おや、それは悪い事をした。それじゃあ、ちょっと止めよう」

そう言って男は指をパチン、と鳴らす。その瞬間、流れていたクラシックのBGMは止まり、雑談をしていたカップルの声が止み、いいや、動くのをやめていた。……時間が止まっている。

「これでいい。こっちの時間は止めておいたから、君の都合には差し支え無いだろう?」

「……」

最早唖然とするしかない。一体どこの世界に、時間までをも操ることが出来るマジシャンが居るだろうか?

「ふむ、初めからこうしておけば良かったかな。まあいい、ともかく」

男は席を立つと、僕の隣に立ち、肩に手をのせる。

「私は、君が適任だと判断した。神とは一言に言っても、やる事は多いし、制約も数多くある。でも、誰かがやらなくちゃあ、いけない」

「だ、だからと言って、とても僕には……」

「神と言うものは、興味を持っては、いけない。信じては、いけない。君は他人に興味を持った事があるかい? 神に何かを願った事は? 無いだろう。そういう人間こそ、神に相応しい」

「で、ですが……」

神はため息をつき、椅子に座りなおすと、真っ直ぐにこちらを見る。

「君が断れば、話はお終い、私は君の記憶を少しばかり弄って、この話は無かった事になるだけだ。だけどね、ようく考えるんだ。君は神に、神にならないかとスカウトをされているんだぞ? 正に一生に一度のチャンスだ。みすみす、用意された椅子を蹴り飛ばすなんて、愚かだとは思わないかい?」

「……分りました。やりましょう」

僕はしぶしぶ了承する。どっちみち、このまま生きていた所で何か変わる訳でもない。どうせなら、やってみよう。そんな考えで務まるのが「神」ならば、だけれど。

「そう言ってくれると思っていたよ。さて、それじゃあ私の最後の仕事だ」

そう言うと、男はパリッとした背広の内ポケットから、掌大の「何か」を取り出す。

「え……あれ……?」

一瞬の衝撃と混乱の後に、全力で脳が働き始める。確かに、男は自分を「神」だと言った。だが、神と言ったって一つじゃない。薄れゆく意識の中、男が最後にこう言った。

「ああ、言うのを忘れていたね。私は神は神でも、死神なんだよ」

#43

陽が沈む。紅く膨張し、禍々しく歪なそれが、何もかもを朱に染めながら。

砂埃でどろどろの手をかざし、目を細めて夕日を見つめる。足はもう動きそうにない。口の中は乾燥し、歯をかみ締めると「ぎしっ」と砂埃の軋む音がする。痛みや苦しさは、暫く前から感じなくなった。

不思議と、心は落ち着いている。暫く前にみたあの海のように穏やかで、その心の中を意識が揺蕩っている感覚。何故だか分からないが、「もうすぐ」なのだと思った。

隣にいる彼女をみる。眼を閉じたまま、ずっと動かない。僕の左手と繋いだままの右手にも、力がない。

「ねえ。不思議だとは思わないかい」

僕は呟く。

「ヒトがずーっと、こうしている時よりもずっと長い長い時間をかけてつくってきた世界よりも、今、こうしている今の方が、僕は何だか幸せなんだ」

そう誰かに語りかけるように言いながら彼女を見つめ、左手を少し持ち上げる。変な音がして、彼女の手だけが持ち上がった。

……また夕陽に目をやる。既にほとんど地平線に隠れてしまい、背後からは宵闇の気配が迫ってきていた。

「僕は……僕はね。この世界が好きだよ。これこそ僕が望んでいたものなのかもしれない。君が居ない事だけが残念だけど、でも、それも、もうすぐ……そう、もうすぐ、終わりだと思う。きっと」

ゆっくりと瞼を下ろす。赤い。これは陽の光のせいだろうか。それとも、僕の体の必死の抵抗なのだろうか。

陽が沈む。紅く膨張し、禍々しく歪なそれが、僕の意識を朱に染めながら。

#44

鉄格子のはまった窓から、ほとんど消えかけた月が、滲んだ光を監房の中に流しこんでいる。

静かな夜だ。時折聞こえてくる醜悪な鼾を除けば、本当に静かで穏やかな夜を感じる事ができる。

がぎい、と、棟の出入り口が開く音がする。錆びつき、少し歪んだあの出入り口は、開け閉めをする時に独特の音を発するので、すぐそれと分かった。続いて、数人の足音。ちゃり、ちゃり、と、手錠の鎖の音が近づいてくる。新入りだろうか。

私の足元で足音がとまり、檻の開いた音、同時に看守らしき「入れ」という小声が聞こえた。よりによってこの房にきやがった。折角の半独房生活も終わりか。

隣のベッドに人が腰掛ける気配。檻の閉まる音。看守たちが遠ざかり、棟の出入り口のあの音が聞こえたところで、私は新たな同居人に話しかけた。

「よお、新入りか」

暫くの沈黙の後に、小さく「ああ」とだけ男は答える。私は身を起こし、薄暗い房内に目を凝らすと、真新しい囚人服を着たそいつがベッドに腰掛け、うなだれている様が見えた。

「何をやった。長いのか」

そう尋ねると、男は少し頭を上げ、

「殺人だよ。無期懲役だそうだ」

と、事もなげに言った。

「そりゃあ、ひでえ」

どちらをさしたのか分かりにくい答えを返す。これの返答で、おおよその「ヤバい」奴なのか、そうでないかの見当がつくからだ。

しかし、返答はない。

「で、誰をやったんだ。怨恨か」

「……怨恨……恨んでいたのかな。分からない」

「分からないで殺すやつがあるかよ」

「分からないし、正直もう、どうでもいいんだ」

この男は、終始単調……と言うか、無気力な答え方をする。これ以上訊いても仕方がなさそうなので、話題を変える。

「生まれはどこだい」

「ここの近くさ」

「お、奇遇だね。俺もここのすぐ近くで生まれたよ。生憎、面会には誰も来ないけどな。親は小さい頃に両方逝っちまってね」

「……もしかして、家のそばに、駄菓子屋がなかったかい」

心なしか、男の目に光が走ったようにみえた。

「あ、ああ、そういえば、あったな。よぼよぼの爺さんが店番をしてて、よく品物を盗んだもんだったよ。ガキの頃から手癖が悪くてな」

「……近所に、片親の根暗そうな子供はいたかい」

「どうだったかな。ガキの頃の思い出なんて、もう殆ど忘れちまったが……ああ、確かいたな。母親と二人暮しだったやつが一人だけ。確か同じ学校で、六年間同じ組だった」

「そいつの事を、覚えているかい」

「そりゃあな。そこまで訊くってえと、やっぱりあんたがそいつだった、ってオチかい」

「……ヒロシ……だろ」

「そういうお前はカツユキか」

闇の中で、男同士微笑みあう。

「中学になってから分かれちまったが、まさかこんな所で会うとはな」

「それはこっちの台詞だよ」

「親御さんは元気か。何度かお前の家に遊びに行って、世話になったからな」

急にカツユキは黙りこくる。

「……おい、どうした」

カツユキは答えない。

「おい、嘘だろう。あんなに仲が良かったじゃないか」

暫くの沈黙が流れる。空気は淀み、呼吸をするたびにその淀みは増していくように思われた。

「……すまん。喋り過ぎたな」

「いいや、気にしないでくれ。済んだことさ」

「ほんの親切心だったんだ。知らなかったんだよ」

空気が先ほどとはさらに異質になるのを肌で感じる。

「……何だって」

彼の声が震えた、何か凄まじいものを含んだものに変わる。

「今、何と言った。親切、と言ったか。いいか、よく聞け。親切って言うのは、もっと無邪気で、素直な、まるで子供が小動物を嬲り殺すような無垢な行いを言うんだよ。お前のその、同情だとか媚びへつらうような薄ら笑いを浮かべた、薄汚い黄色く濁った目をしたようなお前のような男が、間違っても使っていい言葉じゃないんだよ。お前に一体何が分かる。俺の何が分かるって言うんだ。俺は親切だったよ。あれは、そう、あれは親切だったんだ。良かれと思ってやった事なんだ。なのに、こんな汚らしいところに閉じ込められて、その上お前みたいな愚鈍で愚図で穢れきったような男と一緒に扱われるなんて、こんな馬鹿な話があるか。俺は。俺は、この世で一番尊い、美しい、本当の親切をしたんだ。俺は悪くない。悪いのは、母さんをあんなにした、お前らに決まってる。いつだってそうだ。お前らは、本当に美しくて、本当に素晴らしいものを、いつだって無価値で穢れた塵に変質させてしまう。それを、お前は理解しているのか。少しでも考えた事があるのか。ないだろう。ないから、そんな風に、ああ、俺を、そんな目で見るな」

大声で喚き倒す彼の声を聞きつけた看守が飛んできて、彼を殴り、引きずりながら房の奥へと連れて行く。拘束室送りだろう。

私はゆっくりとした動作でベッドに横になると、静かに泣いた。

#45

「人は太陽と月の間に生きているから、人間と言うんだよ」

誰かの言葉を引き出しから引きずり出すように彼は言う。どこか愛おしむ様な、哀しむような声で。

「だから、さ。間があるってことは、どこへでも行けるってことなんだと思う。あんな砂と岩ばっかりの所に埋められている兄も、きっと暗にその事を言いたかったんだと思うんだ」

そう言って、彼は強化ガラス越しに広がった、太陽光を受けてあっけない光を放つ天体を見、目を細める。

「不思議なものだね。大気の厚い層を通して映ったあれには、多くの人が何とも言えない感覚を感じるのに、ここまで来てみると、ただクレーターばかりが目立つ大きな石塊になってしまう。ああ、手が届かないからこそ、不要な思いを馳せるものなのかな、僕らは」

僕がそう言うのを聞いて彼は微笑む。

「今頃、居住区の人たちはさぞがっかりしているんだろうね。長い航海を終えると、そこは荒涼とした惑星だった、か」

「川端康成かい。ああ、もうすぐランデブーに入るな。漸く長かった航海も終わりだと思うと、気が重いよ」

彼は不思議そうな顔をする。

「何故だい。美味しい手料理だって食べれるし、酒だって飲めるじゃないか。待ってる人だって居るんじゃ」

僕は彼の言葉を遮って、

「君と同じだよ。大切な人が、あそこで眠ってる。僕にとっちゃ、あそこはただの墓標なんだ」

彼は押し黙る。僕も喋らない。

「長旅お疲れ様でした。第5ゲートに接続して下さい」

機会音声のナビゲーションが入る。彼は押し黙ったまま操縦桿を握り、僕は彼が上手い事操縦を失敗してくれないかと黒い期待をくすぶらせながら、船内に到着を告げた。

#46

開け放たれたカーテンの無い半円形の窓、その横縁に寄り添うように立つ真鍮製の鳥籠。中には鮮やかな色をした小鳥が、ふわりとした羽毛を誇るように、堂々と嘴を上へ向けて、しかしゆったりとした動作で止まり木の上に落ち着いている。

時折首を傾げたり、左右に俊敏な動作で振ってみせたりするのだが、決してはしたなく鳴いてみせたり、籠の中をみだりに飛んでみせたりはしない。無駄だと知っているのか、それとも何か他の理由があるかは分からないが、ともかくその小鳥は、ただじっと、壁際にある花瓶の置かれたテーブルの他に何もない簡素な部屋と、白い木枠に切り取られた空とを見つめていた。

小鳥が見慣れた部屋を眺めていると、背後でこつりと音が鳴ったのが聞こえた。不思議だと思ったりするよりも早く、鳥としての本能でそちらを見ると、窓の縁、白い木枠を爪で掴むように、真っ黒に薄汚れた大きな鳥がこちらを覗いていた。

「やあ、君はここの家の鳥かな?」

見かけによらず丁寧な調子でその鳥が鳴く。小鳥は止まり木から少し飛び跳ねるようにして黒い鳥の方を向き、

「ええ、そうです」

とだけ、見かけに劣らない美しい声で返した。

「なるほど。ああ、突然で失敬、少々飛ぶのに疲れたので、上手いこと休める場所はないかと思った所で、この美しい窓が目に入ってしまって。ここで、少しだけ羽を休めさせて貰っても?」

大きく太い嘴で、緊張しきったように強張る両翼を突きほぐしながら、黒い鳥は尋ねた。

「構いませんよ。私には、何のもてなしも出来ませんが」

小鳥は少し恨めしそうに鳥篭を見ながら答えた。

「有難い」

簡潔に黒い鳥は礼を述べ、二、三度、窓の縁を確かめるように足を上下させた。

暫くの静寂。小鳥は先ほどと同じように、どこを見るでもなく、じっと鳥籠の中で姿勢正しく佇んでいる。黒い鳥は、瞼を閉じてはいるが、確かな感覚でもって羽の手入れを神経質に行っている。

「……時に、その檻から出たことは?」

静寂を破る黒い鳥の声に、小鳥は不思議そうな眼を向ける。

「ここから出たことは、ありません」

「では、そこから出ようと思ったことは?」

黒い鳥の問いに、いよいよ小鳥は首を傾げた。

「何故そのようなことを訊くのです?」

はたはたと黒い鳥は羽を翻しながら、

「鳥とは自由に生き、空を舞い、木々に歌うものです。しかしあなたは、そのような冷たい檻に閉じ込められ、その美しい羽を満足に広げることも出来ず、飛ぶ時のあの素晴らしい風を感じることも出来ない。息苦しくはないのですか?」

と、さながら詩吟の様にさえずった。

「夢に思うことは、あります。この檻から抜け出し、その窓からこの羽を広げて、どこか遠くへ行ってみたいと思ったことなんて、数え切れない程です。ですが……」

小鳥の鳴き声に一抹の澱み。それを黒い鳥は目ざとく突く。

「ですが、何です?」

「私が私である……つまり、この様に美しいままでいられるのは、きっと私が檻に閉じ込められ、飼われているからだと思うのです。もし私がその窓から飛び出したが最後、きっと私は、辛いあちらの世界では、生きて行けないでしょう。私の両翼は、空を飛び回る自由の重みに耐えれるようには、出来ていないのです」

これ以上ないほどに悲しい鳴き声で、小鳥は嘆いた。恐らく、器官さえあれば、彼はその両の眼から大粒の涙を流していたであろう。

「そんなことはない」

慰めるでもなく、励ますでもなく、黒い鳥は宣告するように鳴く。

「確かに、こちらは辛い。私をご覧なさい。こんなにも薄汚れて、疲弊して、今日を生きるのにもやっとだ。それでも」

黒い鳥は少し羽ばたくと、小鳥の檻の上にとまり、やはり歌い上げるように鳴く。

「飛ぶことは、自由にさえずり歌うことは、素晴らしい。もし明日、力尽きて地面に叩きつけられようとも、私は今日、羽ばたきましょう。何故って、それが鳥本来の姿であるし、私にはそれしか生きていることの意味がないからね」

檻の隙間から、黒い鳥が覗きこむように、小鳥を見下ろす。小鳥は、ただじっと黒い鳥の方へ首を向け、微動だにしない。

「……飼われると言うのも、悪くはなさそうだけれど」

黒い鳥はそう囁く様に鳴き、嘴の端を吊り上げながら、またもとの通り、窓の縁へと戻る。

「私にも、飛べるでしょうか」

ぽつり、と小鳥はさえずる。その眼はもう黒い鳥を見てはいない。じっと、檻の格子を見つめている。

「練習次第と……覚悟だろうね」

黒い鳥は嘴の端を吊り上げたまま鳴くと、少し飛び上がって外へ向き直る。

「それでは、そろそろ私は」

慌てて小鳥は頭を上げ、

「あ、あの……」

と黒い鳥を呼び止めた。

「ん、何です?」

羽を広げかけた姿勢のまま、黒い鳥は少し小鳥の方に首を向ける。

「その、なんと言うか……」

小鳥ははっきりとしない。迷っているのか、覚悟がないのか、そのどちらかですらないのかすら、彼には分からないようだった。

「ふむ……。ああ、そうだ」

黒い鳥は再び小鳥に向き直ると、

「ここに、また来させて貰っても?」

その問いに、小鳥は快活な鳴き声で答える。

「ええ、もちろん!」

「それは、有難い」

黒い鳥はやはり簡潔な礼を述べ、少し飛び上がるとそのまま窓の縁の外へと消えて行った。

刹那、耳が張り裂けんばかりの轟音。幾ばくかの間をおいて、何かが木々の間を、枝を折り、葉をもぎ、堕ちて行く音。この家の主らしき者の声が「やったぞ!」と言うのを、鳥である彼は気付くことも出来ずに、次に黒い鳥の彼がやってくるのはいつかと、ただじっと、待つばかりであった。

#47

ある日、目を覚ますと男の死体が横たわっているのを発見した。

人間、対面した異常事態が異常であればあるほど冷静になるものなのだろうか。それとも驚きや恐怖が麻痺してしまって、理性のみが働いている状態なのだろうか。もしかすると、死体を背にこんな文章を書いていると言う事は、私は狂ってしまったのかもしれない。

私は窓から差し込む強い日差しと、殺人的な気温、そして騒々しく合唱するセミの声の中で目を覚ました。最悪の寝覚めである。とりあえず水でも飲もうと万年床から立ち上がり、一歩目を踏み出した所で「グチャ」と言う耳障りな音と共に、足の裏にひんやりブヨブヨとした感触を覚え、慌てて視線を落とすと、それが横たわっていた。

年頃は二、三十歳と言った所だろうか。中肉中背、特に特徴の無いごく一般的な体格のそれは、安物のプリントTシャツとジーンズを身に着け、そして全身がびしょびしょに濡れた状態でこれ以上無いほど完璧に死んでいた。

半分寝ぼけた状態だったのが幸いしたのか、パニックになる事も無くすんなりと現状を受け入れた私は、それを前に「どうしようか」と暫くの間思考停止状態で何事かを考えていた。早い話が、放心してしまっていた。

通報と言う単語をようやく思い出し、受話器を取ってみるものの、一体何処に電話をすれば良いのだろう。救急車……いや、完全に死んでる。どう見ても手遅れだ。それじゃあ警察……「朝起きたら死体に添い寝してました」とでも言ってやろうか。馬鹿馬鹿しい。

ともかく私は朝ごはんもまだだったし、幸い彼もまだ臭ってきてはないので食事をする事にした。頭を働かせるには糖分が必要なのだ。

冷やご飯にインスタントの味噌汁と言う寂しい食事をもそもそととりながら、目の前の彼について考える。そもそも、何故彼が私の部屋に居るのか? 死体が歩いてきたとは思えない。誰かが運んできたのだろうか。それとも、彼はここで……?

何より、全身びしょ濡れなのは何故か。ここ一週間は雨は降っていないし、風呂も台所も使った形跡は無かった。彼はどこかで水浸しになったのだろう。では、何処で……?

そういえば。ふと脳裏に過ぎった記憶。急いでTVをつけ、適当にニュースをやっているチャンネルに切り替える。私の記憶が確かなら……。

TVをつけて数分後。「次のニュースです。昨日**県**川で男性が川に流され、行方不明に……」これだ。昨日寝る前に同じニュースを聞いた気がする。この川も近所だし、間違い無い。

これでまず彼の死因は分かった。びしょ濡れなのも説明がつく。ただ問題は、どうやって彼がここまで来たのか。

まず考えられるのは怨恨だろうか。いや、特に誰かに恨まれるような事をした覚えは無い。何の恨みも無いような人間が、いくら近いとは言え数キロ離れた川から彼を運び、わざわざ私の部屋に置いて行くような事をするとも思えない。

それじゃあ……待て、待てよ。よーく考えろ私。昨日は何をしていた? 今日と同じように遅めに起きて……それから友人から電話が掛かってきて……遊び歩いた後に居酒屋でたらふく呑んで……駄目だ。記憶が無い。

まさか、私が? どうしても嫌な考えを払拭できない。酔った勢いで川沿いに行き、そこで偶然彼を発見、自分の部屋に連れ帰ったのでは無いか、と言われたら反論する言葉が見つからない。

どうする。人ひとり担いで歩き回ったら、人目につかない筈が無い。もう警察が動いているかも。

ふと、どす黒い一筋の光明が走った。そうだ。「処理」してしまえばいい。適当な大きさにバラし、圧力鍋で煮崩して、生ゴミと一緒に捨てるなり……ともかく「処理」してしまえば、誰にもばれない。よくよく考えてみれば、もし誰かに見られていたとすれば、その場で止めるなり、すぐに通報されて御用となっているだろうし、酷く酔っていただろうから、酔っ払いが酔っ払いを運んでいるようにしか見えなかっただろう。幸い通販で買って一度使ったきりの圧力鍋がある。人をバラすのは包丁で事足りるだろうか。

*

人の骨は存外硬いものだと知った。とりあえず鍋に収まるように、極力関節を外す様に切り、どうしても入りきらない部分は無理やり折った。後は圧力鍋でぐずぐずになるまで煮込み、それから考えれば良い。最初に入りきらない分は、無理やりビニール袋に詰め込んで冷蔵庫に入れておく。臭いが出るのは、まずい。

まず手の部分を煮始めてから数時間。そろそろ陽も傾きかけてきている。服の裏をつたう汗に、異常なほどに今日は蒸していると気付く。閉め切った窓。揺らぐ視界。臭い。匂い。人の煮える匂い。先刻脳裏を過ぎった言葉が反芻される。処分、処分、処分……。

ああ、もう「やってしまった」のだ。どうせ後には引き返せない。時刻も丁度良い頃だ。「その方」が処分に困らない。何、どこかの部族では未だにそんな風習が残っていると言うじゃないか。今日今ここで、「それ」をしようと誰も気付かない。誰も、咎めない。

火を止め、鍋の蓋をゆっくりと開ける。暑い。匂い。肉。少し見える骨。棚から塩と皿を取り出し、菜ばしで盛り付けて塩をふる。匂い。食卓へ運び、その前に座る。暑い。肉。高い圧力を掛けられ、数時間じっくりと煮込まれた手。匂い。変色し、裂けた皮膚の下に見える真皮と筋繊維。肉。匂い。肉。暑い。匂い。肉。暑い。食べ物。

*

「――次のニュースです――」

肉を、圧力鍋にぶち込む。

「――**県**市で――」

適当に調味料を加え、蓋をする。

「――ここ一ヶ月の間に――」

食卓に戻る。山盛りの肉。肉。肉。

「――住民の失踪が多発――」

肉。